奈辺書房

不確かなこと日記。

全世界から、薄っすらと否定されている感覚がある。

全世界から薄っすらと否定されている感覚。そんな感覚があって、誰と会っても最初から拒絶されているような気がしてならない。

人は自分の醜さで押し潰されそうになった時、どのように取り繕い、どのように振る舞い、どのように改善に努めるのだろうか。自己啓発本に「自分が思っているほど、他人は自分のことを見ていない」と言う言葉があった。続いて「だから、周りを気にせず好きなことをやろう」と書かれていた。なるほど、たしかにそうだ。他者に目もくれず自分のことを醜いと思い詰めるほど自分に関心がある人というのは、異常とまで言わなくとも圧倒的な弱者だ。

 

昨夜『GATTACA』という映画を、今夜は『ディア・ドクター』という映画を観た。

 

『GATTACA』は遺伝子操作が可能になった時代の話。

そこでは遺伝子に手を加えられず自然に産み落とされた人間を“不適正者”として扱う。つまり、遺伝子操作を施され、人間として最高のパフォーマンスを発揮できるようにチューニングされた者が“適正”なのだ。当然両者間には能力差が生じるが、作品内では“不適正者”であるヴィンセントが境遇に不満を漏らさず、宇宙に夢を見てただ突き進み続ける姿が描かれる。

実際、ヴィンセントは“不適正者”であるということを除けば、宇宙飛行士になるだけの資質をもっている。足りないのは、遺伝子的に“適正”であるという資格だけだ。そもそも、“適正”の内訳は何なのだろう。

 

『ディア・ドクター』は小さな村で信頼を寄せる人徳の高い医者である伊野が、実は“偽物”だっということが判明するという話。

偽物というのは、人格的に医者としてそぐわないというこではなく、医師免許を所有していないということである。そんな偽物である伊野だが、たしかに村の健康を守っていた。

「その嘘は、罪ですか。」

これは、本作に充てられたキャッチコピーである。医師免許を所有していない人間にメスを握らせるわけにはいかないことは敢えて言うまでもないことだが、村の人間は伊野を責めるだろうか。伊野は偽物だったのだろうか。そして、その嘘を罪だと判断するのは誰なのだろうか。

 

上記ふたつの作品に共通しているのは、「資質はあるが、資格がない」人間の話であるということである。すばらしい作品と自分の内情を照らし合わせることは極めて下品であるとは思うが、どうしても僕は自分と見比べてしまう。僕は人間としての資質はないのに、人間という資格が与えられてしまった“不適正”“偽物”なんじゃないかと思えて仕方がない。

 

冒頭で記した自己啓発本の言葉の通り、実際は“不適正”“偽物”と自分で思うほど、異質ではないのかもしれない。そこまで振り切ってすらいない、中途半端なのかもしれない。僕はまず、誰かに否定される前に自分で自分を否定してしまう癖を、はやいところ治さないといけない。