奈辺書房

不確かなこと日記。

死にたくないから死んでいないだけで、生きていたいから生きているわけではない。

死ぬのはめちゃめちゃに怖い。どれくらい怖いかと言うと、校内放送で

 

「えー、3年1組の○○、至急職員室に来なさい。繰り返す、3年1組の○○、至急職員室に来なさい」

 

と呼ばれて圧倒的に自分側に落ち度がある悪事を暴かれ糾弾され、帰宅してから自宅に鳴り響く電話の音を聴き、それを母が受け取り

 

「あー、もしもし、あ、いつもお世話になっております、えー、はい、はい……、あー、そうなんですね……、本当に申し訳ございません……」

 

という声を聴き、今にも飛び出しそうな心臓の鼓動がBPM200を超えたことを確認した後、深い沈黙を帯びたまったく味のしない夕飯を迎えた後に父親も交えて大説教を喰らった後、自室でシコっているところに突然両親が入ってくるくらい怖い。それくらい死が怖い。絶対に死にたくない。誰だよ、こんな設計にしたのはよ。

 

ただ死にたくないから死んでいないだけで、別に生きていたいから生きているわけではない。生きようと思って産まれてきていない。勘違いしないで欲しい。僕は人間の生命だけが特別美しいものだとか、そんなことは一度も思ったことがない。かといって虫とか植物の生命を人間と比べて素晴らしいと感じたことも一度もない。生命は皆等しく価値がないと思っている。

 

人は生まれてきてしまった以上、死にたくないものなのでとりあえず死なないでいるけども、それだとあまりに退屈だから、できるだけ死を思い出さないように夢や目標を持ってみたり、勉強をしてみたり、映画や小説に触れてみたり、労働をしてみたり、泥酔してみたり、交際してみたり、生殖してみたり、宗教に入信して来世があるなど思ってみたりするのだと思う。

 

寺山修司

「どんな鳥も想像力より高く飛べる鳥はいない。人間に与えられた能力のなかで、一番素晴らしいものは想像力である。」

という言葉を残しているが、果たして本当に想像力は素晴らしいものだろうか?

 

岸田秀はその著書『「哀しみ」という感情』において、

「哀しみは人間特有の感情で、ということは動物には無くて人間しかやらない行為に起因している。1つは目の前の現実を否定し、別のことを想像すること。2つ目は現在、現実に感じている感情や欲望を否定し、抑圧すること。動物は気に入らないほかの動物がいると起こって唸ったりするが、対象がいなくなれば怒りは消える(状況→感情)。しかし人間は現実と別の状況を想像できるから、状況と関わりなく怒りが続く。また人間は怒りを我慢することもできるうえに、無意識に怒りを抑圧することもできる。そして抑圧された怒りは哀しみに変わる」

という旨の記述をしている。要するに、人間は動物と違って想像力があるから抱いてしまった怒りという感情をそのままアウトプットしないでいられるが、それを抑圧した結果「哀しみ」が生まれると。続いて、

「かくして、人間は哀しみに打ちひしがられて長い間嘆く。人間の中でも想像力が豊かな者ほど哀しみは深くなる」 

というところでコラムは帰着している。動物が哀しみを感じないのかどうかについての判断は保留する(動物愛護団体の方とかが読んでいたら恐いし)としても、想像力は哀しみを産む立派な母体であることには概ね同意できる。寺山修司が賞賛する想像力なんかがあるせいで、人間は死を想像できてしまう。いくら想像したところで、人間は生きている間に自分の死を体感することはできない。他人の死を観察することしかできない。そして、自分の死は自分のものにはならず、他人の想像力の一助となる。

 

もちろん、死を経験した人間はこの世に存在しないので、まともなレビューは一つも存在しない。

食べログみたいに、

「こんな死は初めてでした!前回の死はそれなりに痛みを伴うものでしたが、今回は非常に快適に死ぬことができました♪ やっぱり技術の進歩ってすごいですね~、圧巻です! ただ、死ぬ間際に孫が看取ってくれなかったので-1点です。せっかくの死ですから、シチュエーションは大事にしたいものです」

みたいな感想はどこにも見当たらない。

 

何をするにしてもレビューサイトに頼ってばかりいる我々にとって、これは死活問題ではないか、まさに「死」だけに。おあとがよろしいようで。