前進ではなく迷いだけど、後退ではなく探索
「対比ではなく、手の届かないものと対話をしたかったんだ」
それだけ書かれたブログのテキスト入力画面が残されていた。これではあまりに脈略がなさすぎて何に対して言っているのかわからないが、僕の表現に関する思いについてだったのだと思う。
例えば、暗さと明るさ、大きさと小ささ、深さと浅さ、広さと狭さ、男と女、人工と自然、日常と非日常など、対になるものを敢えて同居させることで何かを炙り出そうとする操作を、僕はよく好んでしている。でも、それって何がしたくてやっていたことなんだろう、とふと思った。その時の感覚を今の感情で慮ることはできないけど、たぶんそういう疑問を持った。
それで、その時はきっと「対比ではなく、手の届かないものと対話をしたかったんだ」と気づいたんだと思う。
いま、結構長い時間をかけてつくっているものがある。それはもともとあるものを解釈して、再構築する操作の伴うものなのだけど。やっぱりこの時も対比を積み上げていた。でも、どうして対比をしているんだろう。というかこれは対比なのか? 日夜考えあぐねていた。その時ふと思ったことが、これは表現ではなく探索なのだということだった。
つまり、何か打ち立てたいものが先にあるわけじゃなくて、相対するものを見比べていく中でまだ見えない、手の届かない何かを探り当てようとしているんじゃないか、という気づきだ。自分が何をしているのか、何をしたいのかまったくわからなかった。他人に訊かれたとしても満足のいく回答はできないと思う、今でも。
これは前進ではなく迷いであるけど、後退ではなく探索なんじゃないだろうかと、捉え直してみた。捉え直す言葉が「対比ではなく、手の届かないものと対話」だったんだろうと思う。
今日もぐちゃぐちゃだけど、後退ではなく探索をしていると思いたい。