奈辺書房

不確かなこと日記。

限りなく現在に近い、過去の言葉たち

もしもスマートフォンの電池が切れていたら、まともに移動することすらできないだろう。

 

限りなく現在に近い過去の言葉を眺めては、誰かとお話している気になったり。遥か昔に録音された曲で耳を塞いで、周囲のノイズを遮断したり。そうしなくては、僕はもう移動することすらできない。

 

僕らは部屋から部屋へと移り変わる時、社会に放り出されることをひどく恐れる。予期せぬ人の予期せぬ言葉や行動と、できるだけ無関係で在りたい。タイムラインに汗臭いおじさんはいないし、耳鳴りのするような甲高い女の声は選んで聴かない。できるだけ、思い通りになる部屋のなかで過ごしたい。

 

それでもたまに、スマートフォンの電池が切れたまま移動をしないといけないこともある。

 

寝る前に充電するのを忘れた時、充電器やモバイルバッテリー(僕はそもそもモバイルバッテリーを持っていません)を持っていくのを忘れた時、出先で動画を観すぎてしまった時。退屈というより、不安が勝る。別に誰かから連絡が届くわけでもないし、必ず観ないといけないものがあるわけでもない。自分が、自分の部屋と接続されていないことが不安で仕方がない。

 

帰宅して、急いで部屋に駆け込んでスマートフォンに生命を吹き込むと「ほっ」とする。

 

言葉を誰かに届けられる、誰かの言葉が更新される。実は、言葉を投稿した時と誰かから返信が届いた時、僕の思いや考えは移り変わってしまっている。

 

なんであんなこと言ったんだろう、ここをこう直せばうまく伝わったかもしれない、こんなこと本当は思っていないけど……。それに対して、今もまだそのように思っているつもりで返信する。

 

文字は文字になる時点で過去の言葉になる。僕らは過去と会話をすることで、今を感じてしまう極めて不思議な生き物だ。

 

平面に浮かぶ文字のなかに、僕の主張や意見はない。そこにあるのは、身体的な反応だ。「同性愛者には生産性がない」も「死にたい」も「今日も可愛いね(^_^;)」も「眠い」も「暑い」も「おなかすいた」もみな横一列に並んでる。全部、身体的な反応だ。どこにも意味はない。

 

今日も過去を選り好みして、無意味と無意味で会話をしている。無意味なものに意味をみいだして、「ほっ」としたり「ぎょっ」としたりしている。これからも、限りなく現在に近い過去を生きていく。