奈辺書房

不確かなこと日記。

備忘録とは言えど

久しぶりにブログの記入画面を開いてみたものの、ここのところ生活をしてきた上で特筆すべきことは露ほども無かった。

 

ただひとつ絞り出して思うことがあるとすれば、様々な立場や価値観を持つ他人の意見を尊重しようと思いすぎるとブログのひとつさえ書くことを躊躇ってしまうということだ。

 

自己顕示欲が強いとか、着飾った表現に酔いしれているとか、そもそも文章がつまらないとか、ここに書かれる文章に対してのネガティブなイメージはいくらでも思い浮かべられる。

 

その通りだとは思うのだけど、だからと言ってそう易々と筆を止めて良いものなのか、本当にそれで自分は満足なのか、疑問は残る。

 

たしかに、なんの生産性もなく、愉快でもなく、誰のためにもならない自慰行為ではあるのだけど、僕はこの習慣にそれなりに愛着が湧いているし、「書きたくないな~」と思った理由も取り敢えず忘れないように残してみることで、なにか見つかるかもしれないと期待の念もある。まあ、読み返したりしないしなにかが見つかったことなんてほとんど無いんだけど。

 

取り敢えず、僅かばかりの可能性に期待して書き続けたいなあと思ったという話。

 

■追記

そう言えば、今年はいろいろと挑む年になりそうで。ここで何か良い報告ができたら嬉しいなあと思うわけです。

 

Twitterってすこし消費されすぎるというか、「耳の調子がおかしい」とか呟いて「いいね」がつくような世界ですから、ここでしか言いたくないこともあるんですよね。

 

会ったら言えないけど、電話だったら言えることとか、遠く離れてからやっと言えるようになったこととかあると思うんですけど、あんな感じのやつをここで書きたいなあ。

 

ではでは。

叶った夢の断片

いま、過去の自分にとっての夢が叶っていたことに気づいた。

 

過去の自分にとっての夢とは、「眠れない時は起きていても良い」生活をするということだ。

 

中学生の頃から僕は夜になると活発になる習性(下ネタではない)があるのだが、親からは23時を回ると「寝なさい」と言われた。部活からヘトヘトで帰ってきて18時頃に一度寝ていたから、23時なんてまったく眠くはならないのだ。それなのに「寝ろ」という外圧がかかる。親というのは頑固なもので「眠くない」と言っても、「布団に入れば眠くなる」とかふざけたことを抜かすのだ。これは僕にとって耐え難い苦痛だった。

 

仕方がないので布団に入るものの、当然眠くないので眠りにはつけない。ではどうするのかと言うと、まずはウォークマンでラジオを聴く(そこでSCHOOL OF LOCK!!と出会った)。目当ての番組が終わると今度は好きな音楽を無限に聴き続ける。するとアドレナリンが出てきて覚醒してくる。頭が冴えてくるので、哲学とか宇宙とか、今思えばただの妄想みたいな話ではあることを永遠に考え続けてみたりする。何かしたくてたまらない気分になるのだが、下手に家を動いてしまっては親の機嫌を損なうので良くない。

 

と言うことで、中学生の頃の僕は布団に入ってから5時間ほど無に等しい時間を過ごしていた。どうやら、僕と同じ経験をしている人は少ないようだったので本当に息苦しい世界だと思っていた。

 

この時から、「眠たくなければいつまでも起きていられるような生活をしたい」と強く願うようになっていた。東京の大学に行こうと思ったのも、そんな生活を実現させるために親元を離れて自由に暮らしたいから、以外の理由が見当たらなかった。正直、その頃は大学での勉学のモチベーションなんて微塵もなかった。

 

そんなこんなで、いま僕の夢は叶っている。眠たくないので朝まで起きていることもできる。夜は余りに静かなもので、作業に没頭できる(と言って、実はTwitterを眺めてるだけだったりするのだが)。

 

当然、生活リズムは乱れる。だから、講義に間に合わないことはしばしばあるし、こんな体たらくではシフト制のバイトなんかも長続きしないので、たまに駄文を売ったり写真を撮ったり企画を考えたりして露命を繋いでいる。

 

たしかに夢は叶ったはずなのだけれど、どうにも心から幸せだとは思えない。あの頃あんなに切望した暮らしが手に入ったのに。求めなければそこまで不自由な生活でもないのに。それなのに、どうしていつも何かが欠けている気がするのだろう。しかも、この感覚はどれだけ時間が経っても、どんなに欲しいものが手に入っても、好みの女と寝ても満たされない気がするのだ。

 

ギターが欲しくて欲しくて楽器店でレスポールを眺めていた時のこととか、塾のクラスに好きな人がいたけど話しかけたりなんてできなかった時のこととか、勉強の合間に観始めてから深夜アニメにハマったこと時のこととか、親と折り合いがつかずに悔しくてベッドの中で泣いていた時のこととか、思い出すと僕は何かを叶えたくて必死に生きていたんだなって思う。

 

今僕には新しい夢がある。でも、きっと夢を叶えることより大事なことがあるんじゃないかって、考え始めているところだ。それが何なのかはまだ判然としない。だが、必死に今と向き合うしかないんだってことだけはわかる。

矮小の断片

最近、悩みがあります。他人からすれば取るに足らないようなちっぽけなことです。それをここに書き殴ってみることで、一時の安定が得られればと思い筆を取った次第です。

 

まず、歪んだ自意識についてです。自分が酷く矮小な存在に思えることも、僅かな成功を稀代の偉業であるかのように思って舞い上がることも、どれもすべて自意識が強すぎることに由来します。

 

わざわざ一喜一憂する必要のないことを、いちいち大袈裟に捉えてしまい、俯瞰して物事を考えることができないのです。歪んだ主観が、見える景色をありのまま捉えることを邪魔してしまうのです。

 

そのくせ、人との関係を一歩下がって見てしまい、まるで自分だけは理解しているかのような素振りを意図せずにしてしまいます。

 

心の奥底では自分より浅慮な人を見下していて、でもそれは誰だって同じだろうと思う自分も居て、挙句の果てには自分が世界で一番間違っているように思えて仕方なくなったりもして、あまり口にすべきでないようなことを考えてしまったりもします。

 

平たく言えば、この世から消えてなくなりたいと思います。もともと存在しなかったことにして欲しいくらいですし、消えた後には誰も思いを馳せないでくれたら良いのにと願っているので、新聞やニュースには載らないようなつまらない消え方を模索しています。

 

けれども、こういう事をいう人間はそう簡単には死なないことにも自覚的です。人一倍自意識が強いので、生きていたいと思う気持ちも人より一層強いのです。理想の高さと現実との乖離が、そのようなことを思わせるのだと思います。我ながら厄介な人間だと思うのですが、どうにもならないのです。

 

 

最近、インターネットを眺めていて思うことは、街中のネオンのように煌めく幸せからまるで嘲笑されている気分になったり、筋の通った綺麗な正義からぐしゃぐしゃに押し潰されそうになる感覚があるということです。

 

そのいっぽうで、人との距離を測れない人間が他人の大切に思うことを平気で貶してみせるのは、癪に障るのです。そんな人間がどのようにすれば視界から排除されるのか、うまい手立てがないかと思案したりもします。

 

所謂SNS疲れのひとつだとは思いますが、こういったちっぽけなことひとつに頭を悩ませるのも、くだらないことだとつくづく思います。

 

こうやって煩雑で幼く偏った文章を書いているのも嫌になりますが、「いいね」と言ってくれる人の声ひとつで救われたりもします。1000個のいいねがディスプレイ上に表示されるよりも、1人から「いいね」の声が聞こえる方が、肯定で抱きしめられる感覚は強いようです。

 

 

「わたなべ」という苗字

「わたなべ」という苗字は珍しくない。それどころか、日本の苗字界における「わたなべ」が占める割合は結構大きいらしい。

 

僕の苗字は「わたなべ」だ。渡辺なのか、渡部なのか、渡邊なのか、渡邉なのかはご想像にお任せするが、どれも皆一様に漢字を間違えられやすいという共通点がある。悲しきかな、同じ苗字同士でカニバリズムが生じているのだ。

 

そんな「わたなべ」であることでとある性格が形成されたのではないかと、ふと考えた。

 

言わずもがな、クラスの名簿では高確率で最後尾に位置する。であるからして、出席を取る時は最後に呼ばれる。整列する時も最後になることが多い。席は一番窓側の後ろになる。

 

そうなることがわかっているので、名簿から自分を探さないといけない時は、簡単に見つけることができる。だいたい一番後ろを見れば良いのだ。

 

物心ついた時から「わたなべ」として生活していると、ある感情が芽生える。

 

それは、一番はじめに呼ばれる「あべ」とか「いとう」さんに対する憧れだ。

 

彼らはいつも前の席で一番はじめに名前を呼ばれる。そして、何故かわからないが主人公感があるような気がする。例えるならば、長男と末っ子みたいな感じだろうか。

 

今回特筆して言いたかったことは、ずっと一番後ろにいると、物事を俯瞰して見る癖がつく気がする、ということだ。

 

席も列も後ろだから、周りがよく見渡せる。自分が最初にアクションを起こさなくても、誰かの真似をすればそれで事が済む。たまに、「じゃあ今日は、逆に一番後ろからいくかー」みたいな教師のお節介は冷や汗をかく。そんなサプライズを「わたなべ」は望んじゃいない。

 

思えば、「わたなべ」でテンションが底抜けに高い人と会ったことがないのはそのせいなのだろうか。僕の勘違いかもしれないけど、「わたなべ」の人って、皆すこし物憂げじゃないですか? クラスで一番目立つ人物に「わたなべ」はいない気がする。あ、でも高校の時、生徒会副会長が「わたなべ」だったな。でも、あいつにも明るさの中にドス黒い闇があった気がする。

 

やっぱり、「わたなべ」は暗い。

「おすすめの本ある?」という質問、答えるの難しい説

「おすすめの本ある?」

 

最近、知人によくされる質問なのですが、これ簡単そうに見えて実は答える難易度が高い質問ランキング5位以内に入るのでは?と思ったのです。

 

と言うのも、本と言ってもジャンルは多岐にわたります。小説、エッセイ、実用書、専門書……。それに難易度も様々です。短編ひとつを取ったとしても、星新一のようにサクッと読めるショートショートがあれば、安部公房のように小難しい随筆もあります。

こんなに多く種類のある本の中から、「おすすめの本ある?」という質問に二つ返事で「これ!」と答えるのはなかなか難しいものです。

 

この質問に限った話ではありませんが、相手がどういう意図でその質問をしてきているのか的確に汲み取ったうえで紹介しなくては双方に深い遺恨が残ります。

 

例えば、「サクッと読める小説を知りたいな〜」と思ってる人が「おすすめの本ある?」と聞いてきたとします。そこで、あなたはデール・カーネギーの著書『人を動かす』を勧めたとしたならば、相手はどう思うでしょう。

 

小説の頭になっていた相手ならば、まず間違いなく「なんじゃいこのおっさんは!俺は小説を勧めてほしかったのに、なんでこんな意識高い本勧めてきたんだ!」と思うんじゃないでしょうか。下手すればお互いに二度と口を交わすことも無くなるでしょう。

 

たしかに『人を動かす』は累計1,500万部売り上げている自己啓発の名著であり、誰に勧めても恥ずかしくない本です。

 

それでも、勧めるべき人や場合、タイミングは選ぶべきです。

 

さっぱりしたラーメンを食べたい人をラーメン二郎には連れて行きませんし、黒髪清楚系女子高生が好きな人に明日花キララの動画は勧めないですよね。もしそんな人がいたとしたらシンプルなサイコパスです。小説を読みたい人に『人を動かす』を勧めるような人に人は動かせません。人を動かせないサイコパスです。

 

要するに、どれだけ名著であったとしても、どれだけあなたがお気に入りだったとしても、相手がすすめて欲しいものを汲み取った上でなければ、その本は相手にとってそ無価値なものになってしまうのです。せっかく自分が良いと思っている本を勧めるのですから、相手に合わせておすすめを選びたいものです。

 

ですから、「おすすめの本ある?」と聞かれた際には、どういう内容が読みたい気分なのか、どれくらいの分量が良いのか、実用書ならレベル感はどんなものがいいのか、どんな作家のどんな文体が好きなのか、最近ハマっていることは何かなどを尋ねてみて、相手が欲しているのはどんな本なのか丁寧に想像してみると、喜んでもらえるような本を勧めることができるんじゃないかと思います。

 

ちなみに僕は小説だったら、朝井リョウ森見登美彦山田詠美。文章の書き方であれば、樋口裕一、山田ズーニー。言葉の考え方であれば梅田悟司、谷山雅計、中村禎。短歌や詩は寺山修司穂村弘。捻くれている人には中島義道(敬称略)の著書を勧める傾向があります。どれも読みやすいものが多いですし、だいたい僕の趣味は掴めるかと思います。

 

 

それではまた。

綺麗事

なんてことの無い嘘を吐いてしまえば、物事が円滑に進むことが増えた。

 

こうして考えたことを拙い文章に纏めて吐き出している理由は、思ったことや感じたことを人前で巧く気の利いた言い回しを使って伝えることができないからだ。そして、伝える対象もいないからだ。

 

責任を持たないくせに他人の人生に評価を下してくるような人の助言は、雑音に等しい。そんなものは聞かなくたって差し支えないのに、この惨めな孤独が聞いてしまう。

 

何かを伝えるためには、それを受け取る相手が抱く感情の輪郭を丁寧になぞれと言われた。だけど、相手の気持ちばかりに気を取られて自分の気持ちをおざなりにしてしまっては、一体自分が何を伝えたかったのか忘れてしまう。

 

夜更かしをしてまで観た映画はそんなにおもしろくなかった、また講義に遅刻した、寝起きの夕焼けが無駄に綺麗だった、女友達が女の顔を向けてきたことが心底厄介だと感じた、自分を過信しすぎて失敗を受け止められなかった、誰かを欺くために誤魔化したことが高く評価されてしまった、浅はかだと思っていたあいつは努力家だった。

 

卑しい感情すべてに折り合いをつけられたことなんて、ただの一度もないくせに、「くよくよしていても仕方がないさ」と明るく振舞う自分に酔いしれていたこと。

 

全部ひっくるめて僕だという事実が、全部ひっくるめて嫌いだ。

 

子どもの頃に思い描いた22歳の生活とは、随分かけ離れた張り合いがない人生だ。

 

 

読書で受益できることについて

・読書で受益できること

 

①想像の起爆剤

 

ある程度の塊で文章の形を成したものには、想像の起爆剤となる要素が含まれている。

 

例えば、

「午後5時、ずっしりと重い夕焼けが街を橙色に染める」

という文章を読んだとする。すると、読者は自ずと時間帯や色、情景を自分の中で想像する。自分の頭の中にある情報を手繰り寄せて、文章が描こうとしているものに自分なりの解答を出そうとする。

 

本を読むことを情報のインプットだと思っている人は多いかもしれないが、与えられた文字列をもとに、自分の頭の中にある情報を動員して想像を働かせる動きはアウトプットだと思う。本にはそのような脳の働きを助長する役割、つまり「想像の起爆剤」があるのだと思う。

 

 

②ある内容について語る口調の習得

 

私は小説よりも新書を読むことが多いのだが、それは凡百の分野について語る口調が欲しいからなのではないかと考えている。

 

あることが文章で綴られる時、頻繁に使われるワードが存在する。街についてであれば、「閑静」であるとか「賑やか」であるとか、それを表す形容詞がある。もし、私が街のことを知らなければ「閑静」とも「賑やか」とも言い表さないかもしれない。

 

そういった、ある内容に対する口調、人の持つ癖のようなものを体に馴染ませられる効果が読書には含まれていると思う。語彙の量を闇雲に増やすだけでは、表現のグラデーションを豊かにするのは難しい。文章の塊、文脈を読むことで口調を習得できるのではないだろうか。

 

 

③孤独の深化

 

本を読む人は、深い孤独を味わう特権が与えられると思う。文章を読むという行為は、著者と読者の対話であり、情報との対話でもある。

 

先に述べたように、読書は「想像の起爆剤」となる効果があって、つまりそれは「孤独の発明」とも言い表せる。想像するということは、たった一人で無から有を思い描くことだ。そうすることで、情報は知識になり、行く行くは知恵となる。

 

想像という行為は極めて孤独だ。徹底した想像には、誰の介入も赦されない。孤独無き想像は空虚だ。

 

最近は、人間の営みの本質は、孤独からの逃亡なのではないかと考えているところなのだが、敢えて孤独を深めることで自らを痛めつけ、自己破壊を繰り返すことで知恵を獲得する振る舞いは、教養なのだろうと思う。