奈辺書房

不確かなこと日記。

諦めの断片

チューニングの狂ったアコースティックギター、寝具のなかでひとつだけ柄が違うシーツの色はベージュ、環状八号線の通りは好きになれた。

 

必要なのに我慢していたものが、数え切れないほどあった。諦めちゃいけないものばかり諦めていたのは失った時の虚しさを知りたくなかったから。

 

辞書をひらけば、知らないことを知ったつもりになれた。何々のつもり、になるのが一番恐ろしいのは、もう本当のことを知ろうと思えなくなるから。諦め方ばかりが上手になるから。君が知らないことばかりで、この世界はきちんとできている。

 

終わるはずのなかった夢が終わったように、この喜怒哀楽も全部きちんと片付く。

 

嘘を吐くから、言葉なんていらない。言葉がいらなくなった世界のことを考えている。

曖昧の断片

ぼんやりと過ごす日々のなか、周りの友人達だけはたしかに変わっていた。

 

僕だけが取り残されているようで、焦る気持ちばかりが、ひたすら募っていく。

 

学年、年齢、肩書き、役職、様々な要因で変わっていく友人達の顔は、もうどんな色が混ざっているのかわからないくらいに大人の顔になっていた。

 

彼等と会うと自分の立ち振る舞いすべてが見透かされているようで、息が詰まる。

 

買い忘れたボディソープのこと、殺人事件のニュース、既読のつかないメッセージ。いまの僕にとっては、どれも同じような出来事に過ぎない。

 

どれだけ足を止めるような出来事が襲いかかっても、日々は振り返ってはくれない。

 

ただ思うべきことを思って、出会う人と出会って、悔しいことに嘆いて、願うことを止めない。

 

そんな取るに足らないことを、忘れないように書き留めておきたい。明けていく空の曖昧さに、呑み込まれてしまう前に。

11/21の断片

・迎えること

 

機会を掴み取る勇気と同様に、掴んだ機会を手放さない忍耐が大事だ。そういう話をしようと思ったがうまくまとめられている自信はない。

 

「挑戦する機会は世の中に幾らでも転がっている」という前向きな説を、僕は経験的に信じている。かなり悲観的な思考の僕でさえ、インターネットがある今の時代には挑戦者に対して寛容な環境が与えられていると思う。

 

学びたいことがあれば、その手にあるスマートフォンですぐ情報に当たることができる。図書館に揃っている本を読めば、だいたいのことは知ることができる。それに加えて、映画や音楽は月額1000円程度で享受し放題な時代にもなってきた。会いたい人がいれば、TwitterでDMを飛ばして会うことだってやり方によっては難しくない。

 

そういった環境を活かせば身の丈以上の人に会えるし、身の丈以上の経験をすることも容易だ。望む景色を眺める機会を掴めるか否かは、自分自身の行動力に懸かっている。「自己責任の時代」と言い換えることもできるかもしれない。なんとも自己啓発的な話だが、実際いまの世の中はそんな感じでできていると云って差し支えないと思う。

 

僕はと云えば、掴んだ機会をどれもうまく活かすことができなかったことを幾度となく悔いている。

 

少しずつ近づいて尊敬していた人と話を交わすことができても、信用してくれた人からやりたかったことができる機会を与えられても、理想の女性から愛されても、全部途中で手放してしまった。誰かのせいだったらまだ後悔しなくて良かったのかもしれないけど、全部、全部自分で嫌になって手放していた。

 

機会を与えてくれた人の寛容さに漬け込んで、甘い蜜を吸い尽くして、手に入れたら後はもうどうでも良くなって、そこから掴み続ける努力をを放棄していた。与えられた機会を当たり前のものだと思ったり、自分の力で掴み取ったんだと慢心していた。いつの間にか、掴んだ機会をありがたく思えなくなっていた。情けないほどに怠惰だ。

 

たとえ、夢にまで描いたような機会を迎えにいく行動力があったとしても、それを掴み続ける忍耐力がなければ虚構の夢だけが砕け散ってすべてが終わる。描いた景色に向かって最初の点を打ったのに、理想の輪郭さえなぞることもないまま自分の方から機会を手放す虚しさは形容し難い。

 

このままではいけないと焦った僕は、意識して自分の気持ちに余白をつくることにした。両手で溢れかえる希望を抱えきれるほど、幸せが似合う人間ではなかった。だから、しばらくの間、求められる機会を受動的に待つことにした。目の前にちらつく希望に溢れた機会を逃す罪悪感は計り知れなかったものの、抱えきれなくなって途中で手放す虚しさを味わうよりは随分とマシに思えたからだ。

 

すると、思いも寄らないことが起きた。自分から働きかけなくても、機会の方が向こうからやってくることが増えたのだ。会いたい人の方から声がかかり、やりたかった仕事を頼まれたりもした。

 

もしかしたら、能動的に機会を掴もうとしてきた貪欲さの正体は、誰かから必要とされないことに対する陳腐な不安だったのかもしれない。きっと、必死になっていろいろ掴みとろうとしていたのは、見かけ倒しのハリボテでもいいから、何もない自分に少しだけでも価値を含ませてやりたかっただけなのだ。

 

本当は、大事なものを抱えきれなくなるまで掴みとって、不安を埋める必要なんてなかった。

 

今日はそういう話。やっぱり、うまくまとまらなかったな。

 

11/19の断片

・ほっこりしたこと

 

自宅近くのセブンイレブンの店員には、まともな人間がほとんど居ない。世の中の荒波を巧みに掻い潜ってきたような連中が精鋭部隊を築いている。なにか、そういう特殊訓練でも受けたのか?とさえ思う。

 

まだ昼間だと言うのにジャンプを読んでいる大学生の店員は、最近になってスマホゲームさえできるほど肝が座ってきた。会計の際に商品名を大声で復唱する婆さんAは、紙パックの飲み物にストローを付けてくれない。何度言っても温かいものと冷たいものを一緒の袋に閉じ込めて台無しにしようとする婆さんBは、もはやそれが生きがいのようだ。他にも、咎めるほどの目立った悪行は働かないにしても、細かな違和感がある店員が粒ぞろいなのだ。

 

客しては迷惑を被ることもあるけど、そんな人間の受け皿があるのは素晴らしいことだと思ったりもする。昨晩、それを強く感じる出来事があった。

 

2ヶ月前から、恐らく、吃音?と思しき男性店員が勤務している。傍から見たら挙動不審で、はじめの頃は客から好奇の目を向けられていた。けれど、決して仕事の覚えは悪くないし、むしろほかの店員とは比べ物にならないくらい必死に努力していた。それに、誠実そうで愛嬌があった。

 

最近は、彼の人柄のおかげか、客から世間話を振られて和やかに会話をしている様子をよく見かけるになった。僕はこれを見て、とてもほっこりする。

 

たしかに、人には欠けている部分があるにせよ、それが社会で生きていく上での生きづらさに直結するとは限らない。どこかにきっと、その欠損が気にならない場所は存在するのだと思う。ただ、先に紹介した大学生、婆さんA、婆さんBにはもっとしっかりしてもらいたい。

 

 

・0.03mmより薄くて軽い

 

底抜けの阿呆だって理解できるほどに平易で薄くて軽い、言葉を冒涜したようなポエム。

 

ブランディングのために、恋人やら友達から言われてもいないことを、あたかも言われたかのようにする寒い演出。

 

本来の意味を汲み取るために必要な前後の文脈が、見事にばっさり切り捨てられている名言・格言等のツイート。

 

こんなものをありがたがってるような人は、心底薄っぺらいと思うし、思慮が浅すぎる。潮干狩りできるくらい浅い。

 

それらの趣味嗜好も存在価値も否定はしないけれど、そんな人に限って「誰かを幸せにしたい」とか言い出すのはどうしてなんだ。日頃から勉強していないくせに、御守りだけは完璧に揃える。みんなで頑張ろうとか言って正義の味方みたいな顔をして、頑張りたくない人は平気で黙殺する。Google検索で「安全保障」とか一寸も調べたことないくせに、ミサイルの騒ぎがある時だけ世界平和を望む。

 

 

目の前のことを蔑ろにしているから、自分とは関係が無くて遥か遠くの話ばかり偉そうに語る。それもまるで、善人であるかのような面をして。そんな人間の薄さや軽さに、心底嫌気がさす時がある。その薄さと軽さを転用して、避妊具の開発にでも活かせれば良いのにと思う。

 

 

11/12の断片

・暇の正体

 

普段使っている「暇」という言葉のイメージと実際の状況には、些か看過できない乖離がある。暇ってなんなんだ。

 

実際、「暇だ」と思ったり口に出しているシーンを思い浮かべてみる。その時、スマホを手に取れば、知りたい情報にアクセスして見識を深めることも、関心のあるコンテンツを動画や音楽、活字などの形で手早く享受することも可能だ。そもそも、人生を長期的に見据えて、今やるべきことだって手元にある。

 

これは暇ではない。全然暇なはずないのだ。むしろ忙しくあるべきだろ。

 

僕の思う「暇」のイメージは、すべてやることが片付いたり、手元に一切時間を潰すものが存在しない状況のことだ。けれど、実際に暇だと言うシーンは、大量の選択肢が溢れた結果、自らがそれを選択できなくなっている状況のことを指している。

 

もしかしたら、暇は暇なのではなく大量の選択肢に思考を殺されているだけなのかもしれない。

 

 

・最期を考える

 

もし、一週間後に死ぬとしたらしておきたいこと、遺書にしたためる内容、出棺される時のBGM、人に見られたくないフォルダの名前や検索履歴、生前関わった人達からの評判等、考えれば考えるほど今の時間を浪費しているんだと痛感する。

 

今の僕は死ぬことさえも価値がない。大手広告代理店に入社して過労死するとかそういうことでもしない限り、何の意味もない死を迎える。誰かが感動的な弔辞を読んでくれるほど立派に生きてきた自信もない。

 

一週間後死ぬとしてもしたいことなんてほとんど浮かばないし、死んだ後に読まれる文章なんて書くつもりはないし、出棺の時にセンスを問われるのも嫌だ。パソコンは再起不能になるようにぶち壊してくれ。僕が死んでもなにも思わないで欲しいし、僕の言動や諸々に好き勝手文脈をつけないで欲しい。

 

僕抜きでも、それまでと何も変わらずしっかり世の中は回ってほしいと願うけど、心配するまでもなく何も変わることはない。すこし悲しいけど、その方が思いを巡らすこともなくて良さそうだ。

いつもより永く静かな夢

視界が閉ざされてからいくらか時が過ぎた。目の前にすこしずつ映像が流れてくる。わずかに音は鳴っているようにも思える。自分と世界の境界線が曖昧な感覚がある。これは夢だ。

 

夢が夢だと気づいた時には、もうどれだけ夢に浸かっていたのか覚えていない。わかることは、たしかに生きている時とは感覚が違うことだけだ。この夢はいつ終わるのだろう。自分の意識とは別に、映写機が夢を流し続ける。いま、自分しか存在しないこの世界に彷徨い続けている実感はたしかにあるのに、どこか言いようがない安心を覚えたことが不思議だった。

 

本当は人の目を気にしたり、張り詰めてものごとに取り組んだり、自分じゃない誰かのお面を被って過ごさなくてもいいんだという許しで満たされているような感じがする。しかし、映写機で映されている内容はあまり穏やかなものではなく、もう思い出したくなかった記憶が姿形を変えて現れているようだった。

 

その映像には、僕が幼かった頃の両親のやさしさとか、兄弟と遊んだ公園の遊具とか、もう忘れてしまった喜怒哀楽とか、いまはもう悩むことなんてないものへの焦りとか、好きだった恋人とか、見たことがないのに五感では覚えている気がする景色とか、そんなものの断片がなんの脈絡もなくスライドショーのように浮かび上がる。

 

夢が途切れる瞬間と目が覚める間には、数億年の月日が経っているように感じる時がある。もしかして僕はおじいさんになってしまったのか? と思うほど長い時間が流れていたように感じて、額に流れる汗はそういう実感を紛れもなく受け止めた証なんだろう。

 

しかし、今日だけはいつもと違った。たしかに夢が途切れたはずなのに、いつまで経っても視界がひらけない。いったいどういうことなんだろう。誰かに尋ねてみようと思ったものの、体は動かない。その瞬間、全身に不安が染み渡る。一瞬躊躇ったが、これが死ぬということなのかと確信する。そうか、こういうことか、案外悪くないなと縁起の悪いことを考えてしまったが、世の人が言うほど怖いものじゃなかった。

 

死んだら、ただこの意識が途絶えてもう二度となにも感じることがないのだという感覚は、安心という言葉で表すのが一番容易く、すべてを許されるという感覚にも近かった。それと同時に、いままで言葉にできなかったすべてが言葉でも色でも光でもない、はじめて知る感覚で浮かび上がってきた。ああ、これが幸せってことなんだ。僕はそれまで幸せって言葉の意味を知らなかった。僕だけが知らないその言葉の意味をたしかに感じ取った後に、いつも通り目が覚めた。

 

時刻は15時、既に講義に間に合う電車の発車時刻は過ぎていた。そうしてまた今日も、額の汗は後味の悪い二度寝の仕業だったことに気がつくのだった。

 

説明できないから、好きなのかもしれない。

明け方に近い夜だけど、どうしようもない感覚の話を連々と。

 

白ほど綺麗でも黒ほど汚れてもいないけれど、曖昧というほどに無責任ではない。

 

持ち前の詰めの甘さは、淡くて儚く脆い抽象的な世界観と喩えれば一応の格好がつくが、紛れもなく今直面している事実やそれを解釈する思考、周辺に存在する客観的な世界を捉えるための現実的な視点は失いたくない。

 

幻想的というほどの儚さはないし、絶望するほど底の深さはなくて、中途半端と言えばその通りな情けないグラデーションのなかで、泳ぎ方を知らない子どもの如くもがいている。

 

社会貢献、誰かのために、人のためになりたい、そんな感情が一切ないわけではないが、優先度は極めて低い。自分を幸せにできない人は、他人の幸せをこころから願うことなんかできない。

 

知らないことを知りたい。知ったことでなにかまた別のこと知りたい。そうしたらなにかもっとすごいものが見える気がする。知ることで、今の自分を否定して全部ぶっ壊せる気がする。自己破壊の果てになにかあると信じてやまない。

 

感じたこと、抱えていること、伝えたいことを形にしたい。そして誰かに認めて欲しい。ありのままの自分を愛して欲しいなんて絵空事を描いてみたこともあったりけれど、それよりも自分の身を削りながら積み上げたものを愛してくれた方がよっぽど幸せかもしれないし、今はその方が性に合っているように感じる。

 

SNSで自慢するための交流も、一夜限りの関係も、その場しのぎのやけ酒もいらない。死後になにか偉大なものが残らなくてもいい。

 

ただ、こんな自分でもたしかに存在していることを、嘘偽りなく全身で受け止められる感覚が欲しい。

 

いつになるかわからないけれど、いつかその瞬間が訪れたら、もっと遠く深くまで行ける気がする。この感覚だけを頼りに、もうすこし歩いてみたい。

 

説明できない感覚は自分だけのものだから、焦って言葉で縛りはしたくない。説明できる言葉と出逢うまで、この感覚を胸に抱いて少々待ち草臥れようと思う。