予告の誘惑
予告と云ったら、あなたはなにを思い浮かべるだろうか。
僕は、真っ先に映画館で本編の前に流れる予告を思い浮かべる。もう良い歳だから、映画館にはひとりで行くのも慣れたけど、予告編を観ている時の胸の高鳴りはいくつになっても子どもの時と同じように感じるのだ。
それもそのはず、予告編とは本編を期待させるために、本編に足を運ばせるために存在するのだから、胸が高鳴るようにできている。それにしても、これだけ娯楽が普及した世の中において、映画館で観る予告編というのは群を抜いて胸が高鳴る。予告と予告の間に流れる一瞬の沈黙は演出なのだろうか? 僕はあの一瞬にポップコーンを噛むことができない。
皮肉なことに、本編はたいしたことがない映画も予告編だったらおもしろかったりする。ちなみに、僕は映画トランスフォーマーが大好きなのだが、特に予告編はいつも興奮する。なんならあれは予告編が本編なのではないかとさえ思う。蛇足だが、トランスフォーマーは第一部が最高だ。
その第一部の予告編を観てもらいたい。
未知なる存在から侵略される圧倒的な絶望。それを前にした人類はまるで歯が立たない。中東の軍事基地、アメリカ国防総省、F-22、ニューヨークでの市街戦 。当時小学生だった私にとって、どれをとっても興奮を抑えられない描写が詰め込まれている。こんなのずるすぎる。
トランスフォーマーと並んで好きな予告編がある。
トニー・スタークがテロリストに捕えられて、そこから脱出するスーツをつくるために、洞窟の中で鉄をガンッガンッと打つシーン、学校の工務室?のようなところで真似をして先生に怒られた記憶がある。これもまた最高だ。こういう最高なものに対しては、いつも説明する言葉が見当たらない。
紹介しだすとキリがないので、ここあたりで終わりにするが、もちろん上記のようなドンパチした予告以外にも好きなものはある。
今回言いたいことは、そんな予告編みたいな人が好きだということだ。
まるで普段なにをしているかわからないけど、それに興味を唆るような言葉の使い方、仕草をする人。そんな人はずるい。興味を持たざるを得ない。そんな人にどうやって興味を持ってもらおうかと、思案に暮れる。知りたくてSNSのアカウントを探す。けれど、たいていの場合そういう人は本名でSNSをしていない。そもそも、SNSをしていなかったりする。その癖、SNSで晒せば多くの人間が寄り付きそうな才能や美貌を持っていたりする。なにか仕掛ければ、お金も生み出せるだろう。
ここですこしだけ思い返してみる。予告編はおもしろいけど、本編はおもしろくない映画がある。僕が興味をそそられている人も、もしかしたらそんな人かもしれない。つまらない本を読んで、つまらないバイトをして、つまらない相手と寝ているかもしれない。そうだとしたら、ああ、あの人も同じ人間だったんだってすこし安心して胸を撫で下ろせる気がする。
それでも、予告編みたいな人は魅力的だ。僕も本編は心の奥に秘めていたい。本編を観られてしまった人からは、なんだこんなもんかって愛してほしい。
発明家の美学
心地よい空気の振動に身をまかせること。たったそれだけのことに、喜怒哀楽すべてがどうにか報われるような気がした弱さを時々思い出す。
頭を掻きむしる左手は、道端に立ち竦む誰かに差し伸べる右手より強かった。左脳では慰められない感傷のために、右脳は言葉にならない言葉を浮かべる。
もしも人生がひとつの唄だとしたら、きっとCメロの辺りを幾度も再生すると思う。そのうちテープが擦りきれて、最後のサビは聴けなくなるかもしれないねと言った誰かのジョークは、MP3プレーヤーの誕生によって指先で埃を弾くように打ち消された。
テクノロジーは身体を拡張し続けるか。それともいつか、身体そのものを超克するか。いつか、明けない夜が発明されたとしたら、そこに月の明かりは再現されるのだろうか。
消費の断片
磨り減ったスニーカーの底、残り2本になった煙草、購入したカメラは中古。
高額になった公共料金は、あまり外に出なかった証。それなのに、洗濯物は溜まる一方。
夢中になれた音楽は今や移動中に聴き流すだけ。ライブハウスに足を運ぶことも無くなった。活字は読む気になれず、読書家の気持ちなんてまるで理解できそうにない。観たかった映画は、いつの間にか公開を終えていた。
なにかになったフリ、なにかを好きになったフリ、誰かを思うフリばかりが中途半端に上手になった。
わけもわからず明るく振る舞うあいつが嫌いだった。持論を振りまくあいつはどうしようもなく痛く思えて、つらくて見ていられなくなった。海外から来たコンビニの店員は、いつの間にか日本語がうまくなっていた。その間僕は、なにかひとつでも前に進んだのだろうか。
1時間1000円で消費される日々が嫌になって、途中まで書いた履歴書はぐちゃぐちゃにして捨てた。はじめは丁寧にしていた連絡も今は返していない。
時代のせいにできたなら、いくらか楽になるだろうか。他人のせいにできたなら、すこしは自分を愛せただろうか。
抜け殻みたいな自分と地面に落ちる灰殻を見比べても、遠くから見れば何も変わらないかもしれない。
こんな僕だとしても、なにか残せたらいいな。いつか、消費を抜け出せたらいいな。
まずはそれより
出会ったすべての人に感謝するよりも、
目の前にいるその人を大切にしたい。
「がんばれ」よりも、
相手の可能性を信じたい。
口先だけの言葉よりも、
伝わる行動を与えたい。
インターネットの拡散よりも、
隣にいる友達に想いを伝えたい。
零れる弱音を抑えるよりも、
綺麗な言葉で飾ることをやめたい。
「みんな」に向けるよりも、
「ひとり」と向き合たい。
人は思ってるより強くはないけど、
実は身近なことから変わることができる。
見えないなにかに不安になるけど、
実は身近なところにヒントが転がっている。
ゆれる
空気中に厚い膜でも張っているんじゃないかと思うほどヌメっとした湿度を伴った夏の夜に、メンソールの煙草はほんの僅かな爽快感を与えてくれる。
きっと、生活するうえで大切なことなんて、多くを語りすぎないことや何かを奪うまで求めないことくらいに収まるのかもしれない。
西川美和監督『ゆれる』は僕の大好きな作品だ。その中で主人公を演じるオダギリジョーは上京してカメラマンをしているのだが、途中流れる8mmフィルムで撮影された映像には、不思議な質感があった。その映像は決して自分の記憶ではないのに、いつかどこかで自分が体験した記憶を追いかけるようで、まるで天日干しをしてふっくらした布団のように柔らかな感覚。
それらは人間の心情をバラエティ番組のように面白おかしく操るために紡ぎ合わせられたのとは正反対。悪くいえば味気ない、ただの生活の繰り返し。どうしてこんな生活の繰り返しに胸を打たれるのだろうか。
焦燥からの逃げ方
夕暮れ時の小学校の校舎で、昔の知人と会いながら半裸になっている夢を見た。冷静に考えて頭がおかしいのではないかと思ったが、前から夢って意味の分からないものだった。小さい頃、とりわけ小学生の時には、日頃の疑問、どうして夢を見るんだろう、どうして学校にはこんなルールがあるんだろう、どうしてあいつはあんなことするんだろう、といった取り留めのないことを友人に打ち明けていた記憶が漠然と存在する。それに対して友人は、なんでそんなこと言うの?と顔全体から溢れ出していたし、もしかしてこんなことを思うのは自分だけなの?と不安を感じていた。しかし、後から気づいたことではあるが、それらはどこかの誰かが感じていたことに一般化できることだった。学問領域で言えば、哲学がそれらの不安を拭い去ってくれたと記憶している。まだコミュニケーションがおぼつかない小学生同士の会話では、ミスコミュニケーションは多分に存在するし、きっとそこから発生した孤独感だったのではないだろうか。ノンバーバルコミュニケーションよりも、正確な文章でコミュニケーションをとることに安心や信頼を感じていたし、今もそうだ。
そうだ。僕は焦燥に駆られている。過去のどうにもならないことにくよくよするし、それを咎める人物に対して苛立ちもする。自分のしたいことができるスキルがないし、やろうと思える気力も勇気も覚悟もない。これまでの経験上、やってみたら大概どうにでもなるし、抱くだけ無駄な焦燥だとは思うが、僕はどうしてもダメだった時のことを色彩豊かに想像する。もしうまくいかなかった時のために、防波堤という名の限界を定める。高解像度で言い訳を事前につくりあげると、すこしだけ楽になれる。
こんな体たらくだ。スクールカーストは真ん中より低く、偏差値は60がいいところ。ドッジボールではすぐに外野に行くし、居酒屋のバイトは半月と続かない。決して変動することのなかった体重も、今ではみるみるうちに赤ちゃんのような体型になっている。22にもなれば、自分の道を確立して地道な努力と訓練を繰り返して、身の回りの人を大切にしながら、自己実現に向かっている賢者は存在する。そんな彼らを見て、あそこがくだらない、何々が足りないだなんて思ったものならそれは嫉妬でしかない。批評家になれるほど物を見ていないし、見る目なんて培っちゃいない。今の僕は誰にだって見られちゃいない。そう考えたらなんだってできる気がしたけど、気がしただけだ。
焦燥から逃げ切るには、こうして思ったことをつらつらと書いてみる、または声に出してみるしかないと思う。上記の文章は一切読み返していないので、稚拙だろうし散らばっていて僕の部屋のような状態で汚いと思う。それでも、書きなぐってみたらすこしは楽になるんだということだけは伝えたい。メモ用紙でも、お気に入りのノートでも、スマホのどこかでも、Twitterでもいい。自分のことも、他人のことも、わかった気にならないでほしい。たださらけ出してみることが必要になった時には、この方法を思い出してほしい。