奈辺書房

不確かなこと日記。

焦燥からの逃げ方

夕暮れ時の小学校の校舎で、昔の知人と会いながら半裸になっている夢を見た。冷静に考えて頭がおかしいのではないかと思ったが、前から夢って意味の分からないものだった。小さい頃、とりわけ小学生の時には、日頃の疑問、どうして夢を見るんだろう、どうして学校にはこんなルールがあるんだろう、どうしてあいつはあんなことするんだろう、といった取り留めのないことを友人に打ち明けていた記憶が漠然と存在する。それに対して友人は、なんでそんなこと言うの?と顔全体から溢れ出していたし、もしかしてこんなことを思うのは自分だけなの?と不安を感じていた。しかし、後から気づいたことではあるが、それらはどこかの誰かが感じていたことに一般化できることだった。学問領域で言えば、哲学がそれらの不安を拭い去ってくれたと記憶している。まだコミュニケーションがおぼつかない小学生同士の会話では、ミスコミュニケーションは多分に存在するし、きっとそこから発生した孤独感だったのではないだろうか。ノンバーバルコミュニケーションよりも、正確な文章でコミュニケーションをとることに安心や信頼を感じていたし、今もそうだ。

 

そうだ。僕は焦燥に駆られている。過去のどうにもならないことにくよくよするし、それを咎める人物に対して苛立ちもする。自分のしたいことができるスキルがないし、やろうと思える気力も勇気も覚悟もない。これまでの経験上、やってみたら大概どうにでもなるし、抱くだけ無駄な焦燥だとは思うが、僕はどうしてもダメだった時のことを色彩豊かに想像する。もしうまくいかなかった時のために、防波堤という名の限界を定める。高解像度で言い訳を事前につくりあげると、すこしだけ楽になれる。

 

こんな体たらくだ。スクールカーストは真ん中より低く、偏差値は60がいいところ。ドッジボールではすぐに外野に行くし、居酒屋のバイトは半月と続かない。決して変動することのなかった体重も、今ではみるみるうちに赤ちゃんのような体型になっている。22にもなれば、自分の道を確立して地道な努力と訓練を繰り返して、身の回りの人を大切にしながら、自己実現に向かっている賢者は存在する。そんな彼らを見て、あそこがくだらない、何々が足りないだなんて思ったものならそれは嫉妬でしかない。批評家になれるほど物を見ていないし、見る目なんて培っちゃいない。今の僕は誰にだって見られちゃいない。そう考えたらなんだってできる気がしたけど、気がしただけだ。

 

焦燥から逃げ切るには、こうして思ったことをつらつらと書いてみる、または声に出してみるしかないと思う。上記の文章は一切読み返していないので、稚拙だろうし散らばっていて僕の部屋のような状態で汚いと思う。それでも、書きなぐってみたらすこしは楽になるんだということだけは伝えたい。メモ用紙でも、お気に入りのノートでも、スマホのどこかでも、Twitterでもいい。自分のことも、他人のことも、わかった気にならないでほしい。たださらけ出してみることが必要になった時には、この方法を思い出してほしい。