奈辺書房

不確かなこと日記。

綺麗事

なんてことの無い嘘を吐いてしまえば、物事が円滑に進むことが増えた。

 

こうして考えたことを拙い文章に纏めて吐き出している理由は、思ったことや感じたことを人前で巧く気の利いた言い回しを使って伝えることができないからだ。そして、伝える対象もいないからだ。

 

責任を持たないくせに他人の人生に評価を下してくるような人の助言は、雑音に等しい。そんなものは聞かなくたって差し支えないのに、この惨めな孤独が聞いてしまう。

 

何かを伝えるためには、それを受け取る相手が抱く感情の輪郭を丁寧になぞれと言われた。だけど、相手の気持ちばかりに気を取られて自分の気持ちをおざなりにしてしまっては、一体自分が何を伝えたかったのか忘れてしまう。

 

夜更かしをしてまで観た映画はそんなにおもしろくなかった、また講義に遅刻した、寝起きの夕焼けが無駄に綺麗だった、女友達が女の顔を向けてきたことが心底厄介だと感じた、自分を過信しすぎて失敗を受け止められなかった、誰かを欺くために誤魔化したことが高く評価されてしまった、浅はかだと思っていたあいつは努力家だった。

 

卑しい感情すべてに折り合いをつけられたことなんて、ただの一度もないくせに、「くよくよしていても仕方がないさ」と明るく振舞う自分に酔いしれていたこと。

 

全部ひっくるめて僕だという事実が、全部ひっくるめて嫌いだ。

 

子どもの頃に思い描いた22歳の生活とは、随分かけ離れた張り合いがない人生だ。

 

 

読書で受益できることについて

・読書で受益できること

 

①想像の起爆剤

 

ある程度の塊で文章の形を成したものには、想像の起爆剤となる要素が含まれている。

 

例えば、

「午後5時、ずっしりと重い夕焼けが街を橙色に染める」

という文章を読んだとする。すると、読者は自ずと時間帯や色、情景を自分の中で想像する。自分の頭の中にある情報を手繰り寄せて、文章が描こうとしているものに自分なりの解答を出そうとする。

 

本を読むことを情報のインプットだと思っている人は多いかもしれないが、与えられた文字列をもとに、自分の頭の中にある情報を動員して想像を働かせる動きはアウトプットだと思う。本にはそのような脳の働きを助長する役割、つまり「想像の起爆剤」があるのだと思う。

 

 

②ある内容について語る口調の習得

 

私は小説よりも新書を読むことが多いのだが、それは凡百の分野について語る口調が欲しいからなのではないかと考えている。

 

あることが文章で綴られる時、頻繁に使われるワードが存在する。街についてであれば、「閑静」であるとか「賑やか」であるとか、それを表す形容詞がある。もし、私が街のことを知らなければ「閑静」とも「賑やか」とも言い表さないかもしれない。

 

そういった、ある内容に対する口調、人の持つ癖のようなものを体に馴染ませられる効果が読書には含まれていると思う。語彙の量を闇雲に増やすだけでは、表現のグラデーションを豊かにするのは難しい。文章の塊、文脈を読むことで口調を習得できるのではないだろうか。

 

 

③孤独の深化

 

本を読む人は、深い孤独を味わう特権が与えられると思う。文章を読むという行為は、著者と読者の対話であり、情報との対話でもある。

 

先に述べたように、読書は「想像の起爆剤」となる効果があって、つまりそれは「孤独の発明」とも言い表せる。想像するということは、たった一人で無から有を思い描くことだ。そうすることで、情報は知識になり、行く行くは知恵となる。

 

想像という行為は極めて孤独だ。徹底した想像には、誰の介入も赦されない。孤独無き想像は空虚だ。

 

最近は、人間の営みの本質は、孤独からの逃亡なのではないかと考えているところなのだが、敢えて孤独を深めることで自らを痛めつけ、自己破壊を繰り返すことで知恵を獲得する振る舞いは、教養なのだろうと思う。

諦めの断片

チューニングの狂ったアコースティックギター、寝具のなかでひとつだけ柄が違うシーツの色はベージュ、環状八号線の通りは好きになれた。

 

必要なのに我慢していたものが、数え切れないほどあった。諦めちゃいけないものばかり諦めていたのは失った時の虚しさを知りたくなかったから。

 

辞書をひらけば、知らないことを知ったつもりになれた。何々のつもり、になるのが一番恐ろしいのは、もう本当のことを知ろうと思えなくなるから。諦め方ばかりが上手になるから。君が知らないことばかりで、この世界はきちんとできている。

 

終わるはずのなかった夢が終わったように、この喜怒哀楽も全部きちんと片付く。

 

嘘を吐くから、言葉なんていらない。言葉がいらなくなった世界のことを考えている。

曖昧の断片

ぼんやりと過ごす日々のなか、周りの友人達だけはたしかに変わっていた。

 

僕だけが取り残されているようで、焦る気持ちばかりが、ひたすら募っていく。

 

学年、年齢、肩書き、役職、様々な要因で変わっていく友人達の顔は、もうどんな色が混ざっているのかわからないくらいに大人の顔になっていた。

 

彼等と会うと自分の立ち振る舞いすべてが見透かされているようで、息が詰まる。

 

買い忘れたボディソープのこと、殺人事件のニュース、既読のつかないメッセージ。いまの僕にとっては、どれも同じような出来事に過ぎない。

 

どれだけ足を止めるような出来事が襲いかかっても、日々は振り返ってはくれない。

 

ただ思うべきことを思って、出会う人と出会って、悔しいことに嘆いて、願うことを止めない。

 

そんな取るに足らないことを、忘れないように書き留めておきたい。明けていく空の曖昧さに、呑み込まれてしまう前に。

11/21の断片

・迎えること

 

機会を掴み取る勇気と同様に、掴んだ機会を手放さない忍耐が大事だ。そういう話をしようと思ったがうまくまとめられている自信はない。

 

「挑戦する機会は世の中に幾らでも転がっている」という前向きな説を、僕は経験的に信じている。かなり悲観的な思考の僕でさえ、インターネットがある今の時代には挑戦者に対して寛容な環境が与えられていると思う。

 

学びたいことがあれば、その手にあるスマートフォンですぐ情報に当たることができる。図書館に揃っている本を読めば、だいたいのことは知ることができる。それに加えて、映画や音楽は月額1000円程度で享受し放題な時代にもなってきた。会いたい人がいれば、TwitterでDMを飛ばして会うことだってやり方によっては難しくない。

 

そういった環境を活かせば身の丈以上の人に会えるし、身の丈以上の経験をすることも容易だ。望む景色を眺める機会を掴めるか否かは、自分自身の行動力に懸かっている。「自己責任の時代」と言い換えることもできるかもしれない。なんとも自己啓発的な話だが、実際いまの世の中はそんな感じでできていると云って差し支えないと思う。

 

僕はと云えば、掴んだ機会をどれもうまく活かすことができなかったことを幾度となく悔いている。

 

少しずつ近づいて尊敬していた人と話を交わすことができても、信用してくれた人からやりたかったことができる機会を与えられても、理想の女性から愛されても、全部途中で手放してしまった。誰かのせいだったらまだ後悔しなくて良かったのかもしれないけど、全部、全部自分で嫌になって手放していた。

 

機会を与えてくれた人の寛容さに漬け込んで、甘い蜜を吸い尽くして、手に入れたら後はもうどうでも良くなって、そこから掴み続ける努力をを放棄していた。与えられた機会を当たり前のものだと思ったり、自分の力で掴み取ったんだと慢心していた。いつの間にか、掴んだ機会をありがたく思えなくなっていた。情けないほどに怠惰だ。

 

たとえ、夢にまで描いたような機会を迎えにいく行動力があったとしても、それを掴み続ける忍耐力がなければ虚構の夢だけが砕け散ってすべてが終わる。描いた景色に向かって最初の点を打ったのに、理想の輪郭さえなぞることもないまま自分の方から機会を手放す虚しさは形容し難い。

 

このままではいけないと焦った僕は、意識して自分の気持ちに余白をつくることにした。両手で溢れかえる希望を抱えきれるほど、幸せが似合う人間ではなかった。だから、しばらくの間、求められる機会を受動的に待つことにした。目の前にちらつく希望に溢れた機会を逃す罪悪感は計り知れなかったものの、抱えきれなくなって途中で手放す虚しさを味わうよりは随分とマシに思えたからだ。

 

すると、思いも寄らないことが起きた。自分から働きかけなくても、機会の方が向こうからやってくることが増えたのだ。会いたい人の方から声がかかり、やりたかった仕事を頼まれたりもした。

 

もしかしたら、能動的に機会を掴もうとしてきた貪欲さの正体は、誰かから必要とされないことに対する陳腐な不安だったのかもしれない。きっと、必死になっていろいろ掴みとろうとしていたのは、見かけ倒しのハリボテでもいいから、何もない自分に少しだけでも価値を含ませてやりたかっただけなのだ。

 

本当は、大事なものを抱えきれなくなるまで掴みとって、不安を埋める必要なんてなかった。

 

今日はそういう話。やっぱり、うまくまとまらなかったな。

 

11/19の断片

・ほっこりしたこと

 

自宅近くのセブンイレブンの店員には、まともな人間がほとんど居ない。世の中の荒波を巧みに掻い潜ってきたような連中が精鋭部隊を築いている。なにか、そういう特殊訓練でも受けたのか?とさえ思う。

 

まだ昼間だと言うのにジャンプを読んでいる大学生の店員は、最近になってスマホゲームさえできるほど肝が座ってきた。会計の際に商品名を大声で復唱する婆さんAは、紙パックの飲み物にストローを付けてくれない。何度言っても温かいものと冷たいものを一緒の袋に閉じ込めて台無しにしようとする婆さんBは、もはやそれが生きがいのようだ。他にも、咎めるほどの目立った悪行は働かないにしても、細かな違和感がある店員が粒ぞろいなのだ。

 

客しては迷惑を被ることもあるけど、そんな人間の受け皿があるのは素晴らしいことだと思ったりもする。昨晩、それを強く感じる出来事があった。

 

2ヶ月前から、恐らく、吃音?と思しき男性店員が勤務している。傍から見たら挙動不審で、はじめの頃は客から好奇の目を向けられていた。けれど、決して仕事の覚えは悪くないし、むしろほかの店員とは比べ物にならないくらい必死に努力していた。それに、誠実そうで愛嬌があった。

 

最近は、彼の人柄のおかげか、客から世間話を振られて和やかに会話をしている様子をよく見かけるになった。僕はこれを見て、とてもほっこりする。

 

たしかに、人には欠けている部分があるにせよ、それが社会で生きていく上での生きづらさに直結するとは限らない。どこかにきっと、その欠損が気にならない場所は存在するのだと思う。ただ、先に紹介した大学生、婆さんA、婆さんBにはもっとしっかりしてもらいたい。

 

 

・0.03mmより薄くて軽い

 

底抜けの阿呆だって理解できるほどに平易で薄くて軽い、言葉を冒涜したようなポエム。

 

ブランディングのために、恋人やら友達から言われてもいないことを、あたかも言われたかのようにする寒い演出。

 

本来の意味を汲み取るために必要な前後の文脈が、見事にばっさり切り捨てられている名言・格言等のツイート。

 

こんなものをありがたがってるような人は、心底薄っぺらいと思うし、思慮が浅すぎる。潮干狩りできるくらい浅い。

 

それらの趣味嗜好も存在価値も否定はしないけれど、そんな人に限って「誰かを幸せにしたい」とか言い出すのはどうしてなんだ。日頃から勉強していないくせに、御守りだけは完璧に揃える。みんなで頑張ろうとか言って正義の味方みたいな顔をして、頑張りたくない人は平気で黙殺する。Google検索で「安全保障」とか一寸も調べたことないくせに、ミサイルの騒ぎがある時だけ世界平和を望む。

 

 

目の前のことを蔑ろにしているから、自分とは関係が無くて遥か遠くの話ばかり偉そうに語る。それもまるで、善人であるかのような面をして。そんな人間の薄さや軽さに、心底嫌気がさす時がある。その薄さと軽さを転用して、避妊具の開発にでも活かせれば良いのにと思う。

 

 

11/12の断片

・暇の正体

 

普段使っている「暇」という言葉のイメージと実際の状況には、些か看過できない乖離がある。暇ってなんなんだ。

 

実際、「暇だ」と思ったり口に出しているシーンを思い浮かべてみる。その時、スマホを手に取れば、知りたい情報にアクセスして見識を深めることも、関心のあるコンテンツを動画や音楽、活字などの形で手早く享受することも可能だ。そもそも、人生を長期的に見据えて、今やるべきことだって手元にある。

 

これは暇ではない。全然暇なはずないのだ。むしろ忙しくあるべきだろ。

 

僕の思う「暇」のイメージは、すべてやることが片付いたり、手元に一切時間を潰すものが存在しない状況のことだ。けれど、実際に暇だと言うシーンは、大量の選択肢が溢れた結果、自らがそれを選択できなくなっている状況のことを指している。

 

もしかしたら、暇は暇なのではなく大量の選択肢に思考を殺されているだけなのかもしれない。

 

 

・最期を考える

 

もし、一週間後に死ぬとしたらしておきたいこと、遺書にしたためる内容、出棺される時のBGM、人に見られたくないフォルダの名前や検索履歴、生前関わった人達からの評判等、考えれば考えるほど今の時間を浪費しているんだと痛感する。

 

今の僕は死ぬことさえも価値がない。大手広告代理店に入社して過労死するとかそういうことでもしない限り、何の意味もない死を迎える。誰かが感動的な弔辞を読んでくれるほど立派に生きてきた自信もない。

 

一週間後死ぬとしてもしたいことなんてほとんど浮かばないし、死んだ後に読まれる文章なんて書くつもりはないし、出棺の時にセンスを問われるのも嫌だ。パソコンは再起不能になるようにぶち壊してくれ。僕が死んでもなにも思わないで欲しいし、僕の言動や諸々に好き勝手文脈をつけないで欲しい。

 

僕抜きでも、それまでと何も変わらずしっかり世の中は回ってほしいと願うけど、心配するまでもなく何も変わることはない。すこし悲しいけど、その方が思いを巡らすこともなくて良さそうだ。