奈辺書房

不確かなこと日記。

0326の断片

既に各所では桜が綺麗に咲いているらしい。

 

正直、季節ごとに用意されたイベント毎はあまり得意ではない。花見はお酒を飲むための、お祭りは気になる異性を誘うための、秋は夜は一日を長引かせるための、クリスマスはセックスをするための口実に過ぎない。そういった人間に都合の良く解釈した振る舞いが、どうも気に入らないのだ。あとはオリンピックも苦手だし、24時間テレビなんかも嫌だ。卒業式だって感動するために用意されているみたいで、寒気がする。

 

ただ、こういったイベントは乗ってみると案外楽しい。皆こぞって楽しむ理由が、理屈抜きでわかる。ともすれば、気に入らないだなんて言っていないで脳みそを空っぽにして楽しんでみるのも良いのだろう。

 

そもそも、四季の移り変わりの時期は体調を崩しやすいあのバグをなんとかして欲しい。僕らを楽しませたいのかそうでないのかはっきりして欲しい。ああ、春らしい陽気だなあなんて思うベストな時期には、花粉症で目も鼻もすっかりやられて何も感受できないじゃないか。もう少し地球の設計をなんとかして欲しいものである。

 

今日はこんなことが言いたかったわけではなくて、昨日のことを書き留めておきたかった。昨日は、友人に誘われて下北沢へライブを観に行ってきた。そのライブハウスは3年前くらいに一度だけ行ったことがあったので、その時のことを思い出しながら歩いていた。肝心のライブであるが、とても良かった。歌が、メッセージが、音の圧が、観客の視線が、どれも一つになって煌めいて見えた。

 

僕は高校生の頃ポストロックのインストをやっていた。その頃は、ライブハウスが自分の存在を確認できる場所であったし、曲をつくることだけが自分のやりがいであり、本当の意味での苦しさだった。

 

あれから5年ほど経って、今は音楽をしていない。5年の間でバンドを組もうという話は何度かあったが、高校生の時ほど乗り気にはなれないこともあって、それらの機会は自然と指の間をすり抜けてどこかへ落ちていった。たまにギターを手にとってみてもどこか虚しさが残る。彼らの曲を聴いてこの思いは余計に強くなった。

 

変わらず音楽は好きなのにライブにもフェスにも行っていなかったのは、その虚しさが押し寄せてくることを知っていたからだ。どこかでまだ諦めきれないでいる自分がいることを忘れていないからだ。

 

音楽の代わりにカメラをはじめた。駄文だとしても文章を書き散らかして誰かに気持ちが伝わったり、誰かの奥底にある言葉にならない言葉を導き出すようなことが好きだったから、記事を書いたりコピーの勉強もはじめた。Twitterのアカウントのフォロワーはもうすぐ2000人になるようだ。当初やりたいと思っていたことも着々と叶っていっている。素敵な人と出逢えたり、新しい価値観も知ることができた。

 

だけど、音楽だけが足りない。音楽だけが全然足りていない。自分が縋っていたものや頼りにしていたものを、一瞬で塗り替えていくような衝撃のある音楽だけが足りない。

 

それでは一体どうすれば良いのかは皆目見当がつかない。だけれど、まだできることはあるんじゃないかと思う。あまりに遠すぎて先が見えないだけで、少しずつでも前に進んでいる感覚がある。それならそいつを頼りに、前とか横とか斜めとか、あらゆる方向に迷ってみるしかない。今はそれしかわからない。

 

SNSでよく見かける「誰も自分のことなんて理解してくれない」という嘆きに、漸く若さを感じることができた。もちろん、本人にそれを伝えてやるなんて品のないことはしないのだけど、最初から人は人のことを理解なんてできない。人の気持ちを考えましょう、なんていう小学校の先生みたいな人は、人の気持ちを考えられると思っている時点で人の気持ちなんてちっとも考えていないんじゃないか。考えろってんなら、人の気持ちの考え方を教えてくれよって話だ。

 

理解できないから、わずかに感じる希望に共感を示したり、敬意を払うんじゃないだろうか。若さなんて言ってみたけど、老いても気づかない人は一生気づかない。

 

僕だって日々孤独を感じている。朝起きても、友達と談笑しても、誰かと寝ても、やっぱり孤独だ。人といる時なんて、違う形をした孤独があるだけで、孤独に変わりはない。

 

映像作家の山田監督はとあるトークイベントで「孤独なときはとことん孤独になっておけ」と仰っていた。随分厳しいことを言うなと思う。今どきの女子は孤独なんて耐えれないし、性欲の塊男子にそれをすばやく嗅ぎつけられて、手早く孤独を埋めたい女子は誘いに応じる構図、花粉症の時期に鼻をかむティッシュの枚数ほど見かける。あれなんなんですかね。あれ自体はまあコスパが良い処世術なんでしょうけど、それを「女の生き方」みたいに振る舞うのどうなんですかね。気に入らないなあ。

 

山田監督は「孤独であり続けることで見えてくるものがあって、つくる人にとってはそれが発想の材料になる」というようなことも仰っていた。それはまさに修行である。手早く異性で埋めてしまうような人では決して辿り着けない境地なのだろう。

 

どうも僕には不幸で在り続ける才能があるらしいから、どうにかして山田監督の指し示す境地とやらに辿り着きたいものだ。

忘れてしまうから

忘れてしまうから、いま思ったこととか感じたこと、考えたことを書く。いつか読み返した時に、思い出せるように。その時なにを言葉にしたくて、なにを言葉にできなくて悲しくなったのか思い出せるように。

 

忘れてしまうから、大切なひとと会う。あなたと過ごした時間や交わした言葉、変な癖は決して忘れないけれど、あなたの周りに漂う空気や、言葉にできない匂いや体温は、僕が思っているよりずっと柔らかくて軽くて心許ないから。なにも大切にできていないことを、ちゃんと忘れないように。LINEで送る言葉より、会って伝わる感覚を。

 

忘れてしまうから、6畳半のいまを生きる。昨日のことも明日のことも、思っている瞬間はいつだって「いま」だ。遠くのこととか、奥のこととか、ありもしないことで頭を悩ませるけど、僕にどうにかできるのは、せいぜい6畳半のことくらいだ。何のために生きているのか判からなくなって、自分だけが世界でひとりぼっちになったような気がする時は、目の前の6畳半のことだけを考えてみる。

吉野家泥酔おじさんの巻

吉野家泥酔おじさんの巻

 

「いくら掻き集めても小銭が200円しかない……」

 

そう気づいたのは、牛丼大盛汁だくを米一粒残さず綺麗に平らげたあとだった。

 

しかし、僕とてもう大人であるからクレジットカードくらい持っている。カードで支払いを済ませようと、働き始めて間もないであろうフレッシュ感を帯びている店員にカードを手渡した。

 

なにやら店員の様子がおかしい。カードを持ったまま3秒ほど凍りついているのだ。飲食店で働き始めたてにありがちなカードの扱いがわからない、というやつのなのか?と思ったが、そもそもカードが使えないとのことだった。

 

まじか、どうしよう。と悩んでいる僕の隣から声がかかった。

 

「兄ちゃん、俺が払ってやるよ。ちょっと待ちな」

 

神か。世田谷に神は実在した。信じて労働しまくったら会えるとか、修行を積めば神的なそれになれるとか、トイレにいるとか聞いていた神というやつが、そこにいた。その神の姿は、昼過ぎにも関わらず牛丼チェーンで泥酔しているゴリゴリのホームレスおじさんであるが、その時の僕には浅野忠信の如く渋い男気を放っているイケおじに見えた。

 

しかし、状況が状況とは言え、見ず知らずのおじさんに支払いを肩代わりしてもらうわけにはいかない。義務教育を受けている僕なら、それくらい2秒で理解できる。

 

そう思って

「いえ、おじさん大丈夫ですよ」

「店員さん、そこのゆうちょで降ろしてくるので、もう一度支払いに戻ってくる形でもかまわないですか?」

と切り出そうとしたところ、おっさんがこう云った。

 

「あれれ〜、一銭もねえや」

 

え……?

 

どうやら、目の前にあるパチンコで大負けしたうえに泣けなしの財産で煙草を買ってしまい、手持ちが無くなったところらしい。とんだクソ親父である。

 

結局、僕はすこし歩いたところにある銀行でお金を降ろして事なきを得たが、その後おっさんがどうなったのかはわからない。

選ばれるセンス

あまりセンスって言葉を使いたくないのだけど、最近は「選ばれるセンス」を持っている人は存在すると感じる。

 

僕はね、選ばれない側なんだと思うのですよ。それもめちゃめちゃに選ばれない方の部類。就職活動で言えば、面接前に書類で落とされるみたいな感じ。恋愛で言えば、良い友達どまり。

 

選ばれるってことは、簡単に言えばモテること。モテるってなんなんだろう。謙遜でもなんでもなくモテない人間だから、その感覚がよくわからない。

 

こうしたらモテる、っていう公式があるのだろうか。少なくとも、相手が喜ぶことをあまりストレスなく行える人というのはモテるのだと思う。どうしても自分を優先してしまい、保身に走ってしまう僕みたいな人間は選ばれなくて正解なのかもしれない。うまいこと出来てるんだなあ、世界って。

 

でもね、自分のことばかり考えていても変な自信がある時って、案外選ばれる気がするんですよ。

 

根拠の無い自信を突き通せる馬鹿って傍から見たら本当に馬鹿だけど、目の前で勢いをぶつけられてしまうと非現実でドラマチックで青臭くてちょっと良いなって思ってしまう。根拠の無いことに邁進できてしまう勇気が羨ましく思えてしまう。結局、勇気のない人って頼りないし、それなら勇気のある馬鹿の方が幾分かマシだよね。

 

選ばれるってなんなんだろうなあ。

自己顕示欲って、高い低いではなく外向きか内向きかの違いなのでは?

「あいつ自己顕示欲強くね?」

 

SNSに投稿される「私」に対してよく言われる愚痴である。

 

Instagramで見られる「暮らしのセンス高い私」アピール。Twitterで見られる「ギャグやネタのセンス高い私」アピール。Facebookで見られる「仕事や人間関係充実している私」アピール。

 

それぞれのSNSでアピールされる「私」を見させられている側が疲弊し飽き飽きするのも理解できる。ちなみに僕はFacebookの通知は切り、いいねをリクエストしてくる輩はフォローを外しています。Twitterは「彼さん」「恋人」等のワードでミュートしています。要らぬ苛立ちは避けたいですからね。

 

ディスプレイの中で渋滞をおこしている「自己顕示欲」との向き合い方に頭を抱えている人も多いのではないだろうか。人の自己顕示欲を見たくないとか、自分の自己顕示欲を悟られたくないとか。

 

だけども、僕はふと思った。

 

「自己顕示欲って、みんな大なり小なり持っているし、欲の強さと言うよりも表現の仕方がストレスを生んでいるんじゃないか」

 

つまり、生きている人間である以上、自分の存在を示したい自己顕示欲はある。なんなら、みんな自己顕示欲は高め。だけど、それが外に向けられるものなのか、内に向けられるものなのかで人の受け取り方がガラッと変わってしまう。

 

たとえば、自分のファッションをいろんな人に見てもらいたいという人は外向きの自己顕示欲があるとすれば、自分のファッションを控えめにして周りに協調したいという人は内向きの自己顕示欲があるんじゃないかと思っている。

 

どちらにせよ、「自分を○○な存在として認識してもらいたい」という欲が原動力となって行動や表現に推移するのではないだろうか。

 

自己顕示欲は誰もが持っている。それを処理する工程が人によって違うだけの話。強い、弱いではない。うん。だから、なに?と言われればそれまでなんだけど、そんなに躍起になって自己顕示欲に目くじら立てなさんな、と言う微かな願いである。

 

 

備忘録とは言えど

久しぶりにブログの記入画面を開いてみたものの、ここのところ生活をしてきた上で特筆すべきことは露ほども無かった。

 

ただひとつ絞り出して思うことがあるとすれば、様々な立場や価値観を持つ他人の意見を尊重しようと思いすぎるとブログのひとつさえ書くことを躊躇ってしまうということだ。

 

自己顕示欲が強いとか、着飾った表現に酔いしれているとか、そもそも文章がつまらないとか、ここに書かれる文章に対してのネガティブなイメージはいくらでも思い浮かべられる。

 

その通りだとは思うのだけど、だからと言ってそう易々と筆を止めて良いものなのか、本当にそれで自分は満足なのか、疑問は残る。

 

たしかに、なんの生産性もなく、愉快でもなく、誰のためにもならない自慰行為ではあるのだけど、僕はこの習慣にそれなりに愛着が湧いているし、「書きたくないな~」と思った理由も取り敢えず忘れないように残してみることで、なにか見つかるかもしれないと期待の念もある。まあ、読み返したりしないしなにかが見つかったことなんてほとんど無いんだけど。

 

取り敢えず、僅かばかりの可能性に期待して書き続けたいなあと思ったという話。

 

■追記

そう言えば、今年はいろいろと挑む年になりそうで。ここで何か良い報告ができたら嬉しいなあと思うわけです。

 

Twitterってすこし消費されすぎるというか、「耳の調子がおかしい」とか呟いて「いいね」がつくような世界ですから、ここでしか言いたくないこともあるんですよね。

 

会ったら言えないけど、電話だったら言えることとか、遠く離れてからやっと言えるようになったこととかあると思うんですけど、あんな感じのやつをここで書きたいなあ。

 

ではでは。

叶った夢の断片

いま、過去の自分にとっての夢が叶っていたことに気づいた。

 

過去の自分にとっての夢とは、「眠れない時は起きていても良い」生活をするということだ。

 

中学生の頃から僕は夜になると活発になる習性(下ネタではない)があるのだが、親からは23時を回ると「寝なさい」と言われた。部活からヘトヘトで帰ってきて18時頃に一度寝ていたから、23時なんてまったく眠くはならないのだ。それなのに「寝ろ」という外圧がかかる。親というのは頑固なもので「眠くない」と言っても、「布団に入れば眠くなる」とかふざけたことを抜かすのだ。これは僕にとって耐え難い苦痛だった。

 

仕方がないので布団に入るものの、当然眠くないので眠りにはつけない。ではどうするのかと言うと、まずはウォークマンでラジオを聴く(そこでSCHOOL OF LOCK!!と出会った)。目当ての番組が終わると今度は好きな音楽を無限に聴き続ける。するとアドレナリンが出てきて覚醒してくる。頭が冴えてくるので、哲学とか宇宙とか、今思えばただの妄想みたいな話ではあることを永遠に考え続けてみたりする。何かしたくてたまらない気分になるのだが、下手に家を動いてしまっては親の機嫌を損なうので良くない。

 

と言うことで、中学生の頃の僕は布団に入ってから5時間ほど無に等しい時間を過ごしていた。どうやら、僕と同じ経験をしている人は少ないようだったので本当に息苦しい世界だと思っていた。

 

この時から、「眠たくなければいつまでも起きていられるような生活をしたい」と強く願うようになっていた。東京の大学に行こうと思ったのも、そんな生活を実現させるために親元を離れて自由に暮らしたいから、以外の理由が見当たらなかった。正直、その頃は大学での勉学のモチベーションなんて微塵もなかった。

 

そんなこんなで、いま僕の夢は叶っている。眠たくないので朝まで起きていることもできる。夜は余りに静かなもので、作業に没頭できる(と言って、実はTwitterを眺めてるだけだったりするのだが)。

 

当然、生活リズムは乱れる。だから、講義に間に合わないことはしばしばあるし、こんな体たらくではシフト制のバイトなんかも長続きしないので、たまに駄文を売ったり写真を撮ったり企画を考えたりして露命を繋いでいる。

 

たしかに夢は叶ったはずなのだけれど、どうにも心から幸せだとは思えない。あの頃あんなに切望した暮らしが手に入ったのに。求めなければそこまで不自由な生活でもないのに。それなのに、どうしていつも何かが欠けている気がするのだろう。しかも、この感覚はどれだけ時間が経っても、どんなに欲しいものが手に入っても、好みの女と寝ても満たされない気がするのだ。

 

ギターが欲しくて欲しくて楽器店でレスポールを眺めていた時のこととか、塾のクラスに好きな人がいたけど話しかけたりなんてできなかった時のこととか、勉強の合間に観始めてから深夜アニメにハマったこと時のこととか、親と折り合いがつかずに悔しくてベッドの中で泣いていた時のこととか、思い出すと僕は何かを叶えたくて必死に生きていたんだなって思う。

 

今僕には新しい夢がある。でも、きっと夢を叶えることより大事なことがあるんじゃないかって、考え始めているところだ。それが何なのかはまだ判然としない。だが、必死に今と向き合うしかないんだってことだけはわかる。