奈辺書房

不確かなこと日記。

ミルクレープじゃなきゃ嫌だよね

先日、また一つだけ歳をとってしまいました。俗に言う23歳です。お祝いのコメントをくださった方、くれていないけど心の中で「ええやん」くらいには思った方ありがとうございます。

 

今回は誕生日を迎えたから抱負をとかそういうことを書きたいのではなく、誕生日とはなんぞやみたいなことをつらつらと書こうと思っています。

 

他人がしているかどうかは全く別の話なのですが、僕は自分の誕生日を大々的に告知してお祝いの言葉を乞うようなことがあまり好きではありません。翌日に「誕生日は吉岡里帆なのでは?」というツイートをしましたが、あれは吉岡里帆なのでは?を言いたかっただけです。我慢できませんでした。許して、俺の忍耐力の限界を。

 

正直云うと、どうでもいいのです。当日はささやかながら大学の友人に祝ってもらうなどしましたし、それはとびきり嬉しく思います。誕生日だからと云って何か僕自身に変化があるかと云えば、まるでそんなことはないわけです。親へ感謝する日みたいな理屈は、まあ理屈では解りますが。

 

Facebookでは毎日誰かの誕生日が流れてきます。その方々をどう思うかは別にして、「コメントをしなきゃならない」空気が心底苦手なのです。もちろん、誕生日の近くにその方と会えばおめでとうと声をかけますし、何か祝の品でも、とは思います。しかし、誕生日だからと云って特別声をかける内容も浮かびません。

 

ということもあり、基本的に知人向けのSNSでは誕生日を非公開にしています。奈辺のアカウントは忘れていて公開のままでしたが、向こうから気づいてくださってコメントをいただいてしまいました。嬉しいけど、なんか圧をかけてしまうようで、何か言わなきゃと思わせてしまうようで、もやもやします。

 

先に「どうでもいい」と言いました。実際人に言われるまで自分が誕生日だということに気づきませんでした。あっ、もう5月も末か、ということの驚きの方が勝りました。それくらい気にしていませんでした。これは僕の歳の関係もあるかもしれません。22→23歳って中途半端ではありませんか? 20歳は成人になりますから、気を引き締めようくらいは思うでしょう。23歳は、無。

 

たしか、14歳くらいの頃までは心躍るなにかがあった気がします。着実に子どもではなくなっていく感覚や、フィクションだと思っていた異性とのキスやセックスも目の前まで近づいているような感覚、これは人としての脱皮的なイメージが年齢のおかげで現実的なものに感じられました。

 

しかし、今はそんなことはない。なんなら365日という区切りもどうでもいいし、四季もそんなに関心はない。毎日がただの毎日であって、それ以上でも以下でもないのです。

 

ただ、このどうでもいい感は人生を怠けすぎているのでは?という危機感もありました。さて何をしようか。

 

思い浮かんだのは「ケーキくらい食べておこう」。

 

ということで、今ドトールにいます。僕はドトールのミルクレープが好き。恐らくケーキ屋さんのミルクレープの方が美味しいのでしょうし、すこし奮発して普段なら買えないケーキでも買うことで誕生日感は強くなるのでしょう。

 

だけども、僕はケーキを食べられれば良かったのです。ただ空調が効いた喫煙室で珈琲を飲むためだけの場所である、いつものドトール。今日はミルクレープを添えました。正直、ドトールでケーキを頼むことはそれなりに恥ずかしさがあります。これを虚しいことだと思う人もいるかもしれませんが、僕にとっては、ZOZOスーツで計測したTシャツくらいピッタリの幸せです。

 

誕生日はどうでもいいと思いますが、ミルクレープはかなりいい。幼い頃、酔っ払った父が決まった店でチーズケーキかミルクレープを買ってきてくれました。それかモスバーガー。あるいは、ミスタードーナツ。自分では食べずに僕と兄弟を起こして食わせるのです。今思えば寝起きにケーキやハンバーガー、ドーナツを食わされるなんて鬼の所業としか思えませんが、当時は嬉しかった気がします。

 

ミルクレープはそんなことを少しばかり思い出させるだけですが、誕生日とは何かを少し思い出せればOKなのかもしれません。なんかいい話で終えようとしてる感が満載ですが、そんな感じで終えます。以上。

 

ゆるす

青年は人の過ちを許したことがなかった。簡単に許してしまったら、また同じ過ちを繰り返すかもしれない。それに、傷つけられた相手の気持ちはどうなる。青年は確固たる信念を持って人の過ちを許さなかった。

 

或る日、青年は自分の身体がやけに重たいことに気がついた。背中に鈍い重たさを感じる。

 

「これは一体なんだろう」

 

そう思って背中にひっついたそいつを剥がしてみると、「○○の過ち」と記された黒くてねっとりした物体が手にこびり付いた。どうやら他人には見えないものらしい。

 

青年の背中には、これまで許さなかった他人の過ちがのしかかっていたのだ。

 

その日から青年は人が変わったように他人にやさしくなった。自分にどんな汚い言葉を浴びせられても、大切な友人を罵られても、丁寧にお手入れしていた宝物を目の前で粉々にされても、青年は顔色ひとつ変えずに許した。

 

周りの人達の間では、「そういう宗教に入信したんじゃないか」「頭がいかれちまったんじゃないか」「遂に改心したか」などと様々な噂が駆け回ったが誰も真意は判らなかった。

 

青年は人を許すことでまるで自分まで許されるような気がしていた。そのうち許すことに病みつきになって、人のすることをなんでもかんでも許していった。

 

遂に何を許してしまったのかも判らなくなってしまった青年の背中には、あの黒い物体はすっかり消えてなくなっていた。

 

「ああ、これでやっと許された!」

 

そう思ったのも束の間、青年の背中の皮膚は溶けはじめ、中からはあの時見た黒くてねっとりした物体がずるずると零れ落ちた。

 

地面に零れ落ちたそいつを眺めて膝から崩れ落ちた青年は、自分が許される方法はこれじゃなかったんだと、ようやく気づいたのだった。

午前4時、Wi-Fiが途絶えたら

たまに、深夜から朝方にかけてWi-Fiが繋がりにくくなる時がある。僕の契約しているプロパイダの原因なのか何なのかよくわからないけど。

 

YouTubeで宛もなく海外のインディーズバンドを辿ったり、Amazonプライムで映画を観て眠れない夜を耐え忍んでいる僕としては死活問題だ。一度、機会の電源を抜いて再度挿し直しても変わらない。コールセンターに問い合せてみようにも、こんな時間には営業していないのでどうしようもない。

 

こういう時は諦めて手をつけていなかった文庫にでも手を伸ばしてみる。ベッドに座って間接照明の灯りで活字をなぞる。インターネットの無い夜は余計に寂しく孤独に思えるけど、こうやってちゃんと一人になれることに嬉しく思えて浅はかな感傷に浸ったりする。

 

Wi-Fiが繋がらないと言っても、スマートフォンからLTEでインターネットには繋げる。とは言え、動画はすぐに通信料を消費してしまうから閲覧するのは動きのないタイムラインくらいだし、それは退屈で仕方ない。たまに腹を抱えて笑ってしまうくらいおもしろいアカウントを見つけて、一番下まで読んでしまって一夜をまるまる無駄にしてしまうこともある。だから結局インターネットがない夜の過ごし方は、酔わない程度のお酒と手をつけていなかった文庫と相場が決まっているのだ。

 

深夜に名文と出逢ってしまうのはほとんど事故みたいなものだと思うのだけど、そんなことがあるととてつもなく感傷的な気分になってしまう。そしてこうやって、ブログのテキスト入力画面にぶちまけてしまうのだ。これもまた無駄な夜の過ごし方の一つである。

 

大概、夜に思い立って何かをするということは、脳の冷静に物事を考える部分が狂ってしまった結果であるから、目覚めた時には恥ずかして消してしまいたくなることはわかっているのだけどどうにも止められない。

 

一つだけ言えることがあるとしたら、Wi-Fiが繋がらなくなっても、会話に混ざれない宴の席の端っこに居たとしても、独房に閉じ込められたとしても、たった一人で何か愉しむことができたら、それは孤独であっても不幸ではないのだろうなと思うのだ。

反発するという溶け込み

写真を愛する人達は「インスタ映え」という言葉に対して、あまり良いイメージを持っているとは思えない。

 

「私たちは好きで撮っているだけなのに、そうやって馬鹿にしたような感じで括らないで!」と言った感じで。

 

概ね気持ちはわかる。

 

ただ、中にはそういった反発を利用してポジションを取る人もいる。ずる賢いと言うか策士というか。

 

もう少し詳しく説明すると、例えば僕は高校生の時に大人に混じってバンドをやっていて、「ほかの高校生のコピバンと一緒にしないでほしい」というプライドに似たイキり方をしていた。

 

そんな中、「高校生と大人で一緒にライブをしよう」みたいな企画に誘われたことがある。企画者の意図としては、音楽はおんがくなんだから世代の垣根を無くそうぜってことだったと思うのだが、そもそも高校生バンドという肩書きを利用して活動していた訳ではなかった僕らは「高校生」という枠組みにはめられてしまったことにあまり気持ちよく思わなかった。

 

しかし、そこで「高校生って枠組みにはめるな!」というイキリ方をしてしまうと、結果的には「高校生という枠組みにはめられた我々」というポジションを取っている時点で、文脈に乗っかってしまうのだ。

 

これが結構ダサいなと思う。

 

反骨精神ってのはクリエイティビティを発揮する材料やモチベーションにはなるのだが、それは具体的な行動や結果に適用すれば良いだけで、態度で示して自己満足に浸るのは如何なものかと思うわけだ。

 

インスタ映えに関しても同じである。周りはそのように言うかもしれない。しかしそれは、別に軽蔑しているからではなくて、写真を愛する人よりも写真に対する意識が高くないからというだけだったりもする。ムキになるのも馬鹿らしいというか、まあ私はこういうスタンスでやってますから好きに受け取ってくださいな、という方が潔が良いのかもしれない。

例の件に対して言いたいことはない

アラーキーを告発した例の記事について、個人的に「言いたいこと」はない。まず、僕はアラーキーを知らない。写真集を買って読んだことがない。もちろん名前は耳にするし、どうやらすごい写真家でぶっ飛んでるらしいということくらいは知っている。

 

しかし、アラーキーがどんなスタンスで写真をやっているのか、知らないのだ。たしかに、彼女の勇気ある「告発」には目を向けるべきではあるが、僕はアラーキーを知らないのだからこれについて判断する軸や基準がない。

 

ただ、この件を受けての周りの反応にはある種の気味の悪さを感じた。その気味の悪さを解明するべく、今回の件で捉えたことを整理してみたい。

 

文章にするとうまくまとまらなくなりそうなので、箇条書きで捉えたことや感じたこと考えたことをメモ的に書いてみる。

 

・撮影にあたって写真を取り扱う契約書を交わさなかったこと

・また、それによって許可なく出版やその他の形で公に向けて発表されたこと

・私写真の最も重要なファクターはリアリティであり、契約書などのビジネスライクな関係はそれを損なう行いだということ

・のくせに、アラーキー自身は作品で地位も名誉も金銭も享受しているのでは?

・彼は女性礼賛をする人物のようであったが、例の記事を読むとどうやらそうではない言動が多くあったこと

・彼がミューズとして認めた女性に、こうして告発されたという事実

・告発文が事実であれば彼のやり方は明らかに汚く、芸術を隠れ蓑にして私欲の限りを尽くして女性を利用しているように見えること

・そんな彼はメディアに持て囃される人物であり、業界人の多くは口をつぐんでいること

・告発文は8000字以上あるようだが、そもそもシェアしている人間は本当に読んでいるのか疑問

・作品の好き嫌いと過程の物語を一緒くたにして考える人が多いこと

 

僕が捉えたのは以上のようなことだ。

 

なんにせよ、周りの反応を見ると、彼のやり方は今の時代に通用しないのだろう。奴隷制によって成り立っていた社会が存在していたように、女性の人権が蹂躙されたうえで成り立っていた芸術がある、ということなのだろうが、それはもう昭和の遺産になったということが明瞭になったように見える。

 

僕も人の写真を撮る側として思うことは多々あるが、「言いたいこと」が意見なのだしたら言いたいことはやはり無い。あまりに自分が観測できる範囲が狭い話だし、社会や業界の構造問題として捉えたとしても知らないことばかりだからだ。

 

こういった熱狂に皆が雄弁にならなくてはいけないわけではないと思う。

想像力と数百円。

タイトルは糸井重里氏の名コピーです。

 

ここのところ、

「思う」と「思い至る」。

「言う」と「言いそびれる」。

「伝える」と「伝わる」。

のような違いについて、その間にはどれだけの距離があるのだろうと考えを巡らせています。「考える」にしたって「考え尽くす」とでは違ってくるはずです。

 

「考える」が一瞬の行為なのであれば、

「考え尽くす」は作業の連続?

または広さや深さ、奥行の違い?

 

「思う」が主観だとすれば、

「思い至る」は主観と客観の結び目をのことなのでしょうか。

 

「言う」に意思があったとして、

「言いそびれる」で道半ばにして途絶えてしまったのなら、

「言う」と「言いそびれる」の狭間にあったそれは何なのでしょうか。

 

「伝える」ということは、

「伝わる」ための願いであったということが、往々にして忘れられているような気がします。

 

言葉には人それぞれの純度や密度、解像度があり、匂いや風味、手触りもまた微妙に異なるようなのです。

その違いを尊いと感じられる人は、きっと美しい人なのだと思います。

 

けれど僕には言葉がとてつもなく味気のないものに感じられる瞬間があります。

暫くの間、言葉とは目も合わせたくない時だってありました。

 

そんな時に筆の先で線をなぞってみても、言葉の海を航海するが如くページを捲ってみても、ただ文字の羅列が宙に浮くばかりで無力でたまらなくなるのでした。

 

言葉の前には、言葉になれないなにかが整列していたはずで、きっと形をもらえることを待ち侘びていたのだと思います。

言葉よりもまず、そいつの輪郭をはっきりさせてやりたい。そうでなくちゃ、どんな見栄えの良い立派な言葉も無味に感じます。

 

もし、言葉の前で順番待ちをしているそいつの輪郭がはっきりしさえすれば、別に言葉なんて要らないんだと思います。

例えば、疑いのない強さの抱擁で愛が伝わるなら、それはもう手を施す必要はないのだと思います。

0326の断片

既に各所では桜が綺麗に咲いているらしい。

 

正直、季節ごとに用意されたイベント毎はあまり得意ではない。花見はお酒を飲むための、お祭りは気になる異性を誘うための、秋は夜は一日を長引かせるための、クリスマスはセックスをするための口実に過ぎない。そういった人間に都合の良く解釈した振る舞いが、どうも気に入らないのだ。あとはオリンピックも苦手だし、24時間テレビなんかも嫌だ。卒業式だって感動するために用意されているみたいで、寒気がする。

 

ただ、こういったイベントは乗ってみると案外楽しい。皆こぞって楽しむ理由が、理屈抜きでわかる。ともすれば、気に入らないだなんて言っていないで脳みそを空っぽにして楽しんでみるのも良いのだろう。

 

そもそも、四季の移り変わりの時期は体調を崩しやすいあのバグをなんとかして欲しい。僕らを楽しませたいのかそうでないのかはっきりして欲しい。ああ、春らしい陽気だなあなんて思うベストな時期には、花粉症で目も鼻もすっかりやられて何も感受できないじゃないか。もう少し地球の設計をなんとかして欲しいものである。

 

今日はこんなことが言いたかったわけではなくて、昨日のことを書き留めておきたかった。昨日は、友人に誘われて下北沢へライブを観に行ってきた。そのライブハウスは3年前くらいに一度だけ行ったことがあったので、その時のことを思い出しながら歩いていた。肝心のライブであるが、とても良かった。歌が、メッセージが、音の圧が、観客の視線が、どれも一つになって煌めいて見えた。

 

僕は高校生の頃ポストロックのインストをやっていた。その頃は、ライブハウスが自分の存在を確認できる場所であったし、曲をつくることだけが自分のやりがいであり、本当の意味での苦しさだった。

 

あれから5年ほど経って、今は音楽をしていない。5年の間でバンドを組もうという話は何度かあったが、高校生の時ほど乗り気にはなれないこともあって、それらの機会は自然と指の間をすり抜けてどこかへ落ちていった。たまにギターを手にとってみてもどこか虚しさが残る。彼らの曲を聴いてこの思いは余計に強くなった。

 

変わらず音楽は好きなのにライブにもフェスにも行っていなかったのは、その虚しさが押し寄せてくることを知っていたからだ。どこかでまだ諦めきれないでいる自分がいることを忘れていないからだ。

 

音楽の代わりにカメラをはじめた。駄文だとしても文章を書き散らかして誰かに気持ちが伝わったり、誰かの奥底にある言葉にならない言葉を導き出すようなことが好きだったから、記事を書いたりコピーの勉強もはじめた。Twitterのアカウントのフォロワーはもうすぐ2000人になるようだ。当初やりたいと思っていたことも着々と叶っていっている。素敵な人と出逢えたり、新しい価値観も知ることができた。

 

だけど、音楽だけが足りない。音楽だけが全然足りていない。自分が縋っていたものや頼りにしていたものを、一瞬で塗り替えていくような衝撃のある音楽だけが足りない。

 

それでは一体どうすれば良いのかは皆目見当がつかない。だけれど、まだできることはあるんじゃないかと思う。あまりに遠すぎて先が見えないだけで、少しずつでも前に進んでいる感覚がある。それならそいつを頼りに、前とか横とか斜めとか、あらゆる方向に迷ってみるしかない。今はそれしかわからない。

 

SNSでよく見かける「誰も自分のことなんて理解してくれない」という嘆きに、漸く若さを感じることができた。もちろん、本人にそれを伝えてやるなんて品のないことはしないのだけど、最初から人は人のことを理解なんてできない。人の気持ちを考えましょう、なんていう小学校の先生みたいな人は、人の気持ちを考えられると思っている時点で人の気持ちなんてちっとも考えていないんじゃないか。考えろってんなら、人の気持ちの考え方を教えてくれよって話だ。

 

理解できないから、わずかに感じる希望に共感を示したり、敬意を払うんじゃないだろうか。若さなんて言ってみたけど、老いても気づかない人は一生気づかない。

 

僕だって日々孤独を感じている。朝起きても、友達と談笑しても、誰かと寝ても、やっぱり孤独だ。人といる時なんて、違う形をした孤独があるだけで、孤独に変わりはない。

 

映像作家の山田監督はとあるトークイベントで「孤独なときはとことん孤独になっておけ」と仰っていた。随分厳しいことを言うなと思う。今どきの女子は孤独なんて耐えれないし、性欲の塊男子にそれをすばやく嗅ぎつけられて、手早く孤独を埋めたい女子は誘いに応じる構図、花粉症の時期に鼻をかむティッシュの枚数ほど見かける。あれなんなんですかね。あれ自体はまあコスパが良い処世術なんでしょうけど、それを「女の生き方」みたいに振る舞うのどうなんですかね。気に入らないなあ。

 

山田監督は「孤独であり続けることで見えてくるものがあって、つくる人にとってはそれが発想の材料になる」というようなことも仰っていた。それはまさに修行である。手早く異性で埋めてしまうような人では決して辿り着けない境地なのだろう。

 

どうも僕には不幸で在り続ける才能があるらしいから、どうにかして山田監督の指し示す境地とやらに辿り着きたいものだ。