奈辺の日記

不確かなことを綴ります。

おもさ

僕やあなたが思うよりずっと言葉は重くて鋭い。

 

きっと言葉なんて、

意味を含む羅列であるより、視覚的な音の連なりである方がずっと良い。

 

紙の上を行軍する文字の群れが、

ひとりの人間の生き様を投影していたとしても、

大勢の意見を巧みに集約していたとしても、

誰の憂いに刺さることさえなく、

眼前の彼女の涙腺を揺さぶることもないほど軽薄で良い。

 

体温のない重さは罪だから。

涙の行方を知らないあの人が必要としているのは、そんな重さじゃないから。

 

ハッピーエンド

昔見慣れた景色とすこし伸びた髪に思いを馳せて、東京に戻る新幹線に乗った。

 

それまであった常識とか確固たる理想を、芯からぶっ壊してきた音楽をつくっていたあの人は、いまカフェの店員をしているらしい。

 

学生生活をユーモア豊かに綴ったブログを書いていたあの人は、いまなにをしているんだろう。SNSで小説を書いていたあの人も、いまはなにをしているのかわからない。

 

 

きっと、みんなそれぞれの人生を歩んでいる。僕の人生に影響を与えた人達は、また別の誰かの人生に影響を与えているのかもしれない。

 

久しぶりに投稿されたfacebookの事務的なメッセージが、やけに意味を帯びているように思える。

 

あの人は長かった髪を短くした。ゆるくかかったパーマと茶髪は、やはり似合っていなかった。

 

夕暮れに染まる街を眺めると、どうしても昔のことを思い出す。あの時、道が別れたあの人たちが、今どうしているのかすこしだけ気になる日の話。

緊急病室にて


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なぜかベッドが足りなくて通された緊急用の病室。先客はいなくて、窓際のベッドだったからむしろゆったり過ごせそうで良かった。

 

次の日、僕は手術を控えているので、早めに眠りについた。

 

深夜、苦しそうな声を上げる女性が運び込まれてきた。まるで、断末魔の叫びとでも言うべきだろうか。どうやら直前に手術が終わったようだ。

 

しばらくすると、旦那さんが駆けつけてきた。不思議と心配している様子はなく、事務的な話やこれからどうしたら良いのかわからないという話をしていた。幼い子どもは母の変わり果てた様子に驚いていたようだが、彼なりに心配していた。

 

聞くに、この夫婦の経済状況は困窮しているらしく、旦那さんは身寄りの元を訪ねて医療費や生活費を貸してもらうために頭を下げて回っていたそうだ。

 

 

次に、咳がひどい少女が運び込まれてきた。話を聞くと、彼女は高校生で親元を離れて一人暮らしをしているらしい。友達がお見舞いに来ていた。

 

彼女はとてもしっかりしていて、看護師さんに自分の状況を丁寧に説明していた。

 

 

翌朝、ベッドが空いたということで僕は別の病室に移った。自分の手術のことを考えねばならぬという時に、他人様の人生に触れてしまったことは、間違いなく精神衛生上良くないと思う。というか、よく眠りにつけなかったので心身共に良くない。

 

一番最初に運び込まれてきた女性は自分の体のことで精一杯なのに、旦那は頼りない。

 

次に運び込まれてきた少女は、頼るべき家族が近くにいない。

 

一方、僕達はどうだろう。自分が自分のことしか考えられなくなってしまった時、頼れる存在がいることは、本当に恵まれていると思う。

 

悲しきかな人はある程度余裕があると、その状態に慣れてしまって自分が恵まれていることを忘れる。皮肉なことに、その余裕は自身の不足を補うことばかりに目を向けられる。

 

恵まれていることへの感謝を忘れないようにしようなんて、恵まれている人間に言われても綺麗事に思えたりする。

 

愚かな僕は、こうして自分とはかけ離れた人生に触れてはじめて、本当に大切なものに気づけるしれない。

返答すること

最近嬉しかったことの話。

 

すこし前に、Twitterで「お題箱」というものを始めてみた。これは、匿名で自分宛に意見や質問などを募ることができる外部ツールだ。

 

お題箱とある通り、写真に対するお題なんかを頂戴することに適しているツールなのだが、蓋を開けてみると僕に対するコメントが多く並んだ。

 

普段から写真やツイートに対してコメントをくれる方は何人かいて、僕はそれがとても嬉しかった。

 

昔から、自分が思ったことや感じたことを誰かに知って欲しかったり、僕と同じように感動してもらいたいと思う欲求は強くて、Twitterを通してその経験ができることが実感できたからだ。

 

お題箱を設置してから、今までとは別のタイプの方から意見をもらえるようになった。別のタイプとは、「本当は僕になにか思ってるけど、それを言いづらい」人だ。

 

例えば、

・尊敬している人はいるか

・僕の影響で映画を観た、他におすすめはあるか

・どんな女性が好きか

・僕の言葉や考え方が好き

・なーべさんっ

・胸は大きい方が好きか、否か

といったコメントがくる。

 

どれも、僕にたいして少しでも関心を抱いていてくれていることがわかる。一応、広告業界を目指す学生なので、僕が勧めた本や映画に触れてもらえたりすることは筆舌に尽くし難いほど嬉しい。(僕の存在でモノが売れるんだ!って)

 

承認欲求が満たされるどころか、僕の承認欲求の受け皿では溢れかえりそうだ。(コメントしてくれる方、本当にありがとうございます。割とマジでその日1日嬉しいし、思い返して元気をもらっています)

 

しかし、質問への返答にはいつも頭を悩ませる。僕は捻くれ者だから、そのまま答えるのもなんか違うな、と思って気の利いた答えをだそうとする。できれば、めっちゃウケたい。僕は大喜利が結構好きなので。

 

「好きです」とか「わたしのこと好きですか」なんてコメントがくると、こちらとしては身構える。「ありがとうございます」じゃ、芸がないよな、と。いや、ありがとうございますで良くね?とも思うのだが、僕は読者モデルじゃないんだし、そんな好きと言われることを当たり前のように受け流すのも、自惚れていてウザイなと思うのだ。

 

だから、せめて「そう来るか」を返したい。的を射ている言葉ではなくても、「ああ、そういう考え方もあるか、やるじゃん」と思わせたい。いや、そんなこと求められていないのかもしれないけど。これは、勝手なこだわりだけど、ドヤり過ぎないやつがいい。ドヤってるのにスベってるのは本当に悲しいから。

 

そういえば、お題箱で「僕の写真に写りたい」と言ってくれていた方(当然、僕からは相手が誰かわからないけど、後で告げてくれた)と、撮影することになった。不思議なもので、僕も彼女を撮影したいと思っていたし存在を気にしていた。

 

たしか、焼き鳥屋にてひとりでお酒を飲んでいる時に連絡を取っていたと思うが、やり取りは気持ち良いほどスムーズだった。

 

なんだか、こういう偶然があるので人生は楽しい。もし良かったら、またお題箱にコメントをもらえると嬉しいです。

 

 

僕が写真に自作の言葉を添えない理由

言葉が添えられている写真をTwitterでたまに見かける。

それ自体は各々の表現の自由であるし、なかには巧く写真のイメージと絡み合って相互に良い作用が働いているものもある。

しかし、ポエムのような言葉遣いだが詰まるところなにを言ってるのかわからない、ぺらっぺらで0.03mmくらいしか厚みがないんじゃないかと思う言葉が添えられていることもある。

それはなにもTwitterに限った話ではなく、アーティストの歌詞や新人小説家の言葉においても確認できる場合がある。

端的に言えば、悲しい。ダサいし恥ずかしいし見てらんない、という感情よりもまず悲しいと思う。

せっかく良い写真なのに、それ自体で観る側の心を魅了してなにか伝えることができているのに、どうして言葉だけ粗末に扱うんだろう? すべての表現は言葉で思考されるはずなのに、どうして向き合わないんだろう?

こうやって人の投稿を見て思うこともあるが、なにより自分の行いに対しても批判しなければならないところがある。

このつぶやきにある通り、かつて僕は尊敬するコピーライターにこんな言葉をかけられたことがある。詩的な文章に憧れて、それらしい語彙を用いて、なにも伝えることがない文章を書いていた。そんな文章は、誰のこころも動かさないし、なんの価値もない。そんなことに気づいていながらも、自己顕示欲とか見栄みたいな陳腐な感情に突き動かされて、ただただ駄文を連ねていた。

思い出しても恥ずかしいし、できるならそんな過去は消し去りたいが、事実は変わらない。

ただひとつ僕が恵まれていると思うことは、その見え透いた自己顕示欲や見栄のようなものを指摘してもらえる人に出会ったことだ。それでも、未だに治っていないところはあるけど、学生をしながらもライターやエディターとして仕事をもらえるくらいには成長した。

言葉と誠実に向き合う意識は持てたはずだ。だからこそ、こうやって駄文でも伝えたいことは晒し続ける。

だいぶ話は逸れてしまったが、それだけ言葉は重いものだし、飾りなんかじゃないんだ思ってるから、安易な気持ちで写真に添えたりはしたくない。たまに、著名な作家の言葉を拝借したりすることもあるけど、自作の文章を作品に添えるのはまだ抵抗があるし、自信はない。

それに、自分で作品について語り過ぎたくはない。どんなものでも、詰め込みすぎると解釈は狭まってしまう。僕はそれが心底つまらないと思う。写真と言葉を絡める場合、相当神経をすり減らして考えなければならないと思うから、今の僕にはなかなか足が出ない。

要するに、「逃げ」だ。言葉を添えて解釈を限定させることで、作品が良い方向へ向かうことだってあるはずだ。

それでもやはり、今の僕にはなかなか難しい。足掻いてみようと思う。

くだらないこと

変な加工を施された写真、

誰のことも想っていない言葉、

その場しのぎの明るい振る舞い、

性を安売りする女、

答えなんて求めていない恋愛相談、

既読代わりのいいね、

アイドル気取りのオウム返し、

歳だけくった老害の説教。

 

全部見え透いていてくだらない。そのくせ、一定の需要はある。

 

視界に入れたくないものばかりで埋め尽くされていくことに、耐えきれなくなる時がある。

 

きっと、俺はもう後に引けなくなってる。

 

 

予告の誘惑

予告と云ったら、あなたはなにを思い浮かべるだろうか。

 

僕は、真っ先に映画館で本編の前に流れる予告を思い浮かべる。もう良い歳だから、映画館にはひとりで行くのも慣れたけど、予告編を観ている時の胸の高鳴りはいくつになっても子どもの時と同じように感じるのだ。

 

それもそのはず、予告編とは本編を期待させるために、本編に足を運ばせるために存在するのだから、胸が高鳴るようにできている。それにしても、これだけ娯楽が普及した世の中において、映画館で観る予告編というのは群を抜いて胸が高鳴る。予告と予告の間に流れる一瞬の沈黙は演出なのだろうか? 僕はあの一瞬にポップコーンを噛むことができない。

 

皮肉なことに、本編はたいしたことがない映画も予告編だったらおもしろかったりする。ちなみに、僕は映画トランスフォーマーが大好きなのだが、特に予告編はいつも興奮する。なんならあれは予告編が本編なのではないかとさえ思う。蛇足だが、トランスフォーマーは第一部が最高だ。

 

その第一部の予告編を観てもらいたい。

www.youtube.com

 

未知なる存在から侵略される圧倒的な絶望。それを前にした人類はまるで歯が立たない。中東の軍事基地、アメリカ国防総省F-22、ニューヨークでの市街戦 。当時小学生だった私にとって、どれをとっても興奮を抑えられない描写が詰め込まれている。こんなのずるすぎる。

 

トランスフォーマーと並んで好きな予告編がある。

 

www.youtube.com

 

トニー・スタークがテロリストに捕えられて、そこから脱出するスーツをつくるために、洞窟の中で鉄をガンッガンッと打つシーン、学校の工務室?のようなところで真似をして先生に怒られた記憶がある。これもまた最高だ。こういう最高なものに対しては、いつも説明する言葉が見当たらない。

 

紹介しだすとキリがないので、ここあたりで終わりにするが、もちろん上記のようなドンパチした予告以外にも好きなものはある。

 

今回言いたいことは、そんな予告編みたいな人が好きだということだ。

 

まるで普段なにをしているかわからないけど、それに興味を唆るような言葉の使い方、仕草をする人。そんな人はずるい。興味を持たざるを得ない。そんな人にどうやって興味を持ってもらおうかと、思案に暮れる。知りたくてSNSのアカウントを探す。けれど、たいていの場合そういう人は本名でSNSをしていない。そもそも、SNSをしていなかったりする。その癖、SNSで晒せば多くの人間が寄り付きそうな才能や美貌を持っていたりする。なにか仕掛ければ、お金も生み出せるだろう。

 

ここですこしだけ思い返してみる。予告編はおもしろいけど、本編はおもしろくない映画がある。僕が興味をそそられている人も、もしかしたらそんな人かもしれない。つまらない本を読んで、つまらないバイトをして、つまらない相手と寝ているかもしれない。そうだとしたら、ああ、あの人も同じ人間だったんだってすこし安心して胸を撫で下ろせる気がする。

 

それでも、予告編みたいな人は魅力的だ。僕も本編は心の奥に秘めていたい。本編を観られてしまった人からは、なんだこんなもんかって愛してほしい。