奈辺の日記

不確かなことを綴ります。

反発するという溶け込み

写真を愛する人達は「インスタ映え」という言葉に対して、あまり良いイメージを持っているとは思えない。

 

「私たちは好きで撮っているだけなのに、そうやって馬鹿にしたような感じで括らないで!」と言った感じで。

 

概ね気持ちはわかる。

 

ただ、中にはそういった反発を利用してポジションを取る人もいる。ずる賢いと言うか策士というか。

 

もう少し詳しく説明すると、例えば僕は高校生の時に大人に混じってバンドをやっていて、「ほかの高校生のコピバンと一緒にしないでほしい」というプライドに似たイキり方をしていた。

 

そんな中、「高校生と大人で一緒にライブをしよう」みたいな企画に誘われたことがある。企画者の意図としては、音楽はおんがくなんだから世代の垣根を無くそうぜってことだったと思うのだが、そもそも高校生バンドという肩書きを利用して活動していた訳ではなかった僕らは「高校生」という枠組みにはめられてしまったことにあまり気持ちよく思わなかった。

 

しかし、そこで「高校生って枠組みにはめるな!」というイキリ方をしてしまうと、結果的には「高校生という枠組みにはめられた我々」というポジションを取っている時点で、文脈に乗っかってしまうのだ。

 

これが結構ダサいなと思う。

 

反骨精神ってのはクリエイティビティを発揮する材料やモチベーションにはなるのだが、それは具体的な行動や結果に適用すれば良いだけで、態度で示して自己満足に浸るのは如何なものかと思うわけだ。

 

インスタ映えに関しても同じである。周りはそのように言うかもしれない。しかしそれは、別に軽蔑しているからではなくて、写真を愛する人よりも写真に対する意識が高くないからというだけだったりもする。ムキになるのも馬鹿らしいというか、まあ私はこういうスタンスでやってますから好きに受け取ってくださいな、という方が潔が良いのかもしれない。

例の件に対して言いたいことはない

アラーキーを告発した例の記事について、個人的に「言いたいこと」はない。まず、僕はアラーキーを知らない。写真集を買って読んだことがない。もちろん名前は耳にするし、どうやらすごい写真家でぶっ飛んでるらしいということくらいは知っている。

 

しかし、アラーキーがどんなスタンスで写真をやっているのか、知らないのだ。たしかに、彼女の勇気ある「告発」には目を向けるべきではあるが、僕はアラーキーを知らないのだからこれについて判断する軸や基準がない。

 

ただ、この件を受けての周りの反応にはある種の気味の悪さを感じた。その気味の悪さを解明するべく、今回の件で捉えたことを整理してみたい。

 

文章にするとうまくまとまらなくなりそうなので、箇条書きで捉えたことや感じたこと考えたことをメモ的に書いてみる。

 

・撮影にあたって写真を取り扱う契約書を交わさなかったこと

・また、それによって許可なく出版やその他の形で公に向けて発表されたこと

・私写真の最も重要なファクターはリアリティであり、契約書などのビジネスライクな関係はそれを損なう行いだということ

・のくせに、アラーキー自身は作品で地位も名誉も金銭も享受しているのでは?

・彼は女性礼賛をする人物のようであったが、例の記事を読むとどうやらそうではない言動が多くあったこと

・彼がミューズとして認めた女性に、こうして告発されたという事実

・告発文が事実であれば彼のやり方は明らかに汚く、芸術を隠れ蓑にして私欲の限りを尽くして女性を利用しているように見えること

・そんな彼はメディアに持て囃される人物であり、業界人の多くは口をつぐんでいること

・告発文は8000字以上あるようだが、そもそもシェアしている人間は本当に読んでいるのか疑問

・作品の好き嫌いと過程の物語を一緒くたにして考える人が多いこと

 

僕が捉えたのは以上のようなことだ。

 

なんにせよ、周りの反応を見ると、彼のやり方は今の時代に通用しないのだろう。奴隷制によって成り立っていた社会が存在していたように、女性の人権が蹂躙されたうえで成り立っていた芸術がある、ということなのだろうが、それはもう昭和の遺産になったということが明瞭になったように見える。

 

僕も人の写真を撮る側として思うことは多々あるが、「言いたいこと」が意見なのだしたら言いたいことはやはり無い。あまりに自分が観測できる範囲が狭い話だし、社会や業界の構造問題として捉えたとしても知らないことばかりだからだ。

 

こういった熱狂に皆が雄弁にならなくてはいけないわけではないと思う。

想像力と数百円。

タイトルは糸井重里氏の名コピーです。

 

ここのところ、

「思う」と「思い至る」。

「言う」と「言いそびれる」。

「伝える」と「伝わる」。

のような違いについて、その間にはどれだけの距離があるのだろうと考えを巡らせています。「考える」にしたって「考え尽くす」とでは違ってくるはずです。

 

「考える」が一瞬の行為なのであれば、

「考え尽くす」は作業の連続?

または広さや深さ、奥行の違い?

 

「思う」が主観だとすれば、

「思い至る」は主観と客観の結び目をのことなのでしょうか。

 

「言う」に意思があったとして、

「言いそびれる」で道半ばにして途絶えてしまったのなら、

「言う」と「言いそびれる」の狭間にあったそれは何なのでしょうか。

 

「伝える」ということは、

「伝わる」ための願いであったということが、往々にして忘れられているような気がします。

 

言葉には人それぞれの純度や密度、解像度があり、匂いや風味、手触りもまた微妙に異なるようなのです。

その違いを尊いと感じられる人は、きっと美しい人なのだと思います。

 

けれど僕には言葉がとてつもなく味気のないものに感じられる瞬間があります。

暫くの間、言葉とは目も合わせたくない時だってありました。

 

そんな時に筆の先で線をなぞってみても、言葉の海を航海するが如くページを捲ってみても、ただ文字の羅列が宙に浮くばかりで無力でたまらなくなるのでした。

 

言葉の前には、言葉になれないなにかが整列していたはずで、きっと形をもらえることを待ち侘びていたのだと思います。

言葉よりもまず、そいつの輪郭をはっきりさせてやりたい。そうでなくちゃ、どんな見栄えの良い立派な言葉も無味に感じます。

 

もし、言葉の前で順番待ちをしているそいつの輪郭がはっきりしさえすれば、別に言葉なんて要らないんだと思います。

例えば、疑いのない強さの抱擁で愛が伝わるなら、それはもう手を施す必要はないのだと思います。

0326の断片

既に各所では桜が綺麗に咲いているらしい。

 

正直、季節ごとに用意されたイベント毎はあまり得意ではない。花見はお酒を飲むための、お祭りは気になる異性を誘うための、秋は夜は一日を長引かせるための、クリスマスはセックスをするための口実に過ぎない。そういった人間に都合の良く解釈した振る舞いが、どうも気に入らないのだ。あとはオリンピックも苦手だし、24時間テレビなんかも嫌だ。卒業式だって感動するために用意されているみたいで、寒気がする。

 

ただ、こういったイベントは乗ってみると案外楽しい。皆こぞって楽しむ理由が、理屈抜きでわかる。ともすれば、気に入らないだなんて言っていないで脳みそを空っぽにして楽しんでみるのも良いのだろう。

 

そもそも、四季の移り変わりの時期は体調を崩しやすいあのバグをなんとかして欲しい。僕らを楽しませたいのかそうでないのかはっきりして欲しい。ああ、春らしい陽気だなあなんて思うベストな時期には、花粉症で目も鼻もすっかりやられて何も感受できないじゃないか。もう少し地球の設計をなんとかして欲しいものである。

 

今日はこんなことが言いたかったわけではなくて、昨日のことを書き留めておきたかった。昨日は、友人に誘われて下北沢へライブを観に行ってきた。そのライブハウスは3年前くらいに一度だけ行ったことがあったので、その時のことを思い出しながら歩いていた。肝心のライブであるが、とても良かった。歌が、メッセージが、音の圧が、観客の視線が、どれも一つになって煌めいて見えた。

 

僕は高校生の頃ポストロックのインストをやっていた。その頃は、ライブハウスが自分の存在を確認できる場所であったし、曲をつくることだけが自分のやりがいであり、本当の意味での苦しさだった。

 

あれから5年ほど経って、今は音楽をしていない。5年の間でバンドを組もうという話は何度かあったが、高校生の時ほど乗り気にはなれないこともあって、それらの機会は自然と指の間をすり抜けてどこかへ落ちていった。たまにギターを手にとってみてもどこか虚しさが残る。彼らの曲を聴いてこの思いは余計に強くなった。

 

変わらず音楽は好きなのにライブにもフェスにも行っていなかったのは、その虚しさが押し寄せてくることを知っていたからだ。どこかでまだ諦めきれないでいる自分がいることを忘れていないからだ。

 

音楽の代わりにカメラをはじめた。駄文だとしても文章を書き散らかして誰かに気持ちが伝わったり、誰かの奥底にある言葉にならない言葉を導き出すようなことが好きだったから、記事を書いたりコピーの勉強もはじめた。Twitterのアカウントのフォロワーはもうすぐ2000人になるようだ。当初やりたいと思っていたことも着々と叶っていっている。素敵な人と出逢えたり、新しい価値観も知ることができた。

 

だけど、音楽だけが足りない。音楽だけが全然足りていない。自分が縋っていたものや頼りにしていたものを、一瞬で塗り替えていくような衝撃のある音楽だけが足りない。

 

それでは一体どうすれば良いのかは皆目見当がつかない。だけれど、まだできることはあるんじゃないかと思う。あまりに遠すぎて先が見えないだけで、少しずつでも前に進んでいる感覚がある。それならそいつを頼りに、前とか横とか斜めとか、あらゆる方向に迷ってみるしかない。今はそれしかわからない。

 

SNSでよく見かける「誰も自分のことなんて理解してくれない」という嘆きに、漸く若さを感じることができた。もちろん、本人にそれを伝えてやるなんて品のないことはしないのだけど、最初から人は人のことを理解なんてできない。人の気持ちを考えましょう、なんていう小学校の先生みたいな人は、人の気持ちを考えられると思っている時点で人の気持ちなんてちっとも考えていないんじゃないか。考えろってんなら、人の気持ちの考え方を教えてくれよって話だ。

 

理解できないから、わずかに感じる希望に共感を示したり、敬意を払うんじゃないだろうか。若さなんて言ってみたけど、老いても気づかない人は一生気づかない。

 

僕だって日々孤独を感じている。朝起きても、友達と談笑しても、誰かと寝ても、やっぱり孤独だ。人といる時なんて、違う形をした孤独があるだけで、孤独に変わりはない。

 

映像作家の山田監督はとあるトークイベントで「孤独なときはとことん孤独になっておけ」と仰っていた。随分厳しいことを言うなと思う。今どきの女子は孤独なんて耐えれないし、性欲の塊男子にそれをすばやく嗅ぎつけられて、手早く孤独を埋めたい女子は誘いに応じる構図、花粉症の時期に鼻をかむティッシュの枚数ほど見かける。あれなんなんですかね。あれ自体はまあコスパが良い処世術なんでしょうけど、それを「女の生き方」みたいに振る舞うのどうなんですかね。気に入らないなあ。

 

山田監督は「孤独であり続けることで見えてくるものがあって、つくる人にとってはそれが発想の材料になる」というようなことも仰っていた。それはまさに修行である。手早く異性で埋めてしまうような人では決して辿り着けない境地なのだろう。

 

どうも僕には不幸で在り続ける才能があるらしいから、どうにかして山田監督の指し示す境地とやらに辿り着きたいものだ。

忘れてしまうから

忘れてしまうから、いま思ったこととか感じたこと、考えたことを書く。いつか読み返した時に、思い出せるように。その時なにを言葉にしたくて、なにを言葉にできなくて悲しくなったのか思い出せるように。

 

忘れてしまうから、大切なひとと会う。あなたと過ごした時間や交わした言葉、変な癖は決して忘れないけれど、あなたの周りに漂う空気や、言葉にできない匂いや体温は、僕が思っているよりずっと柔らかくて軽くて心許ないから。なにも大切にできていないことを、ちゃんと忘れないように。LINEで送る言葉より、会って伝わる感覚を。

 

忘れてしまうから、6畳半のいまを生きる。昨日のことも明日のことも、思っている瞬間はいつだって「いま」だ。遠くのこととか、奥のこととか、ありもしないことで頭を悩ませるけど、僕にどうにかできるのは、せいぜい6畳半のことくらいだ。何のために生きているのか判からなくなって、自分だけが世界でひとりぼっちになったような気がする時は、目の前の6畳半のことだけを考えてみる。

学びの断片

今日は僕が学びに関して思うことをつらつらと書こうと思います。

 

僕は東京の国立大学大学院研究生(駒場とか本郷にある大学ですね)の試験を受験して無事筆記試験を通過したのですけども、結果から言うとその大学院には通わないことにしました。

 

と言うのは落ちたとかそういう意味ではなく、筆記試験の後に課せられていた面接試験を辞退したからです。

 

受けたのにどうして辞退するんだよ、頭おかしいのか? と思いますよね。少なからず僕もそう思いますし、直前まで辞退するかどうか迷いました。ちなみに、面接は確認のような場なので、行けば受かるようなものです。

 

理由はいろいろあるのですが整理してみると

 

「高い学費とそこそこ長い時間(2年)をかけてまで大学院で学ぶ意味はあるのか」

 

に尽きると思いました。

 

学費と時間に対して大学院で学ぶというのはコスパが悪いのではないかと考えたのです。受ける前に気づけよって話ではあるのですが、僕自身筆記試験を通過すると思っていなかったのでそもそも入学するかどうかは筆記試験を通ってから考えようと思っていたのです。

 

そうして考えてみると、僕が学びたいこと(メディアや情報、コミュニケーション、広告等)のレベル感的にわざわざ院に通うほどでもなく、自宅付近にある区立図書館の蔵書数で間に合うと思いました。ですから、自身の関心分野の書籍はだいたい既に読んでいる状態だったら通う理由は強かったのでしょう。

 

ひとつ前のブログに対して、真面目すぎる内容を書いてしまいました。情緒不安定かよ。

 

ということで、この話で僕が言いたかったことをまとめます。

 

大学で学ぶにしろ、院で学ぶにしろ、専門で学ぶにしろ、独学で学ぶにしろ、大事なのは「どこ」で学ぶかではなく、自分が「何を」「どうやって」学ぶかを明確にすることが重要だと言うことです。後者が明確ならば、おそらく文系の学問の8割は独学で済むと考えていますから、正直文系の学部が減らされるのも仕方が無いことなのかなとも考えたりします。

 

以上です。たまには内省とかよりリアルな私生活のことを書いてみるのも良いかなと思って書いてみました。それでは。

吉野家泥酔おじさんの巻

吉野家泥酔おじさんの巻

 

「いくら掻き集めても小銭が200円しかない……」

 

そう気づいたのは、牛丼大盛汁だくを米一粒残さず綺麗に平らげたあとだった。

 

しかし、僕とてもう大人であるからクレジットカードくらい持っている。カードで支払いを済ませようと、働き始めて間もないであろうフレッシュ感を帯びている店員にカードを手渡した。

 

なにやら店員の様子がおかしい。カードを持ったまま3秒ほど凍りついているのだ。飲食店で働き始めたてにありがちなカードの扱いがわからない、というやつのなのか?と思ったが、そもそもカードが使えないとのことだった。

 

まじか、どうしよう。と悩んでいる僕の隣から声がかかった。

 

「兄ちゃん、俺が払ってやるよ。ちょっと待ちな」

 

神か。世田谷に神は実在した。信じて労働しまくったら会えるとか、修行を積めば神的なそれになれるとか、トイレにいるとか聞いていた神というやつが、そこにいた。その神の姿は、昼過ぎにも関わらず牛丼チェーンで泥酔しているゴリゴリのホームレスおじさんであるが、その時の僕には浅野忠信の如く渋い男気を放っているイケおじに見えた。

 

しかし、状況が状況とは言え、見ず知らずのおじさんに支払いを肩代わりしてもらうわけにはいかない。義務教育を受けている僕なら、それくらい2秒で理解できる。

 

そう思って

「いえ、おじさん大丈夫ですよ」

「店員さん、そこのゆうちょで降ろしてくるので、もう一度支払いに戻ってくる形でもかまわないですか?」

と切り出そうとしたところ、おっさんがこう云った。

 

「あれれ〜、一銭もねえや」

 

え……?

 

どうやら、目の前にあるパチンコで大負けしたうえに泣けなしの財産で煙草を買ってしまい、手持ちが無くなったところらしい。とんだクソ親父である。

 

結局、僕はすこし歩いたところにある銀行でお金を降ろして事なきを得たが、その後おっさんがどうなったのかはわからない。