奈辺書房

不確かなこと日記。

善とは

「思いやり」ってなんだろう。 

 

世間一般に云う「優しい人」は、自己犠牲を顧みず、他人のために行動する人のことだろうか。

 

とすると、「みんなのために頑張ります」と宣言する人は、一見すると優しい人であるように思える。

 

しかし、本当にそうだろうか。本当に優しい人は、自ら「相手のために」頑張ることを宣言するものではないと感じる。

 

震災があると、ボランティアをおこなう人に対して偽善かどうかについてスポットライトが当てられることがある。

 

私は、その議論について心の底からどうでも良いと思う。結果として、誰かが助かっていれば良いじゃないか。やらぬ善よりは、益をもたらす偽善の方がよっぽどマシだ。

 

本来、完璧な善は本人の意図するところに存在しないと思う。つまり、本人が意図せずおこなった行為が結果として誰かを救うことが、完璧な善に近いと云うことだ。

 

ともすれば、「みんなのために頑張ります」という宣言は、結果として誰かを救っているならば完璧ではないにしろ善であり、「優しい」言葉であるとも思える。

 

けれど、「みんなのために頑張ります宣言」は、往々にして「優しい私」をアピールすることが目的になってしまう。そればかりか、周囲に要らぬ期待を抱かせてしまう可能性さえある。

 

それはなぜか。結果として誰かを救いたいなら、黙って行動すれば良いし、宣言する必要なんてないからだ。宣言することで、相手を救う準備があることを示したいなら、具体的な行動を述べよ、そしてやり遂げよ、と思う。宣言する権利を行使するものには、自覚せずとも責任が宿るはずだ。たいていの宣言者は、いざとなれば逃げるし、都合が悪くなれば責任転嫁すると個人的に思う。

 

世間一般で認識されている「善」や「優しさ」は極めて無意味で、人間的で、実益がない。

 

このような論理を唱える人間は、俗に「捻くれ者」と呼ばれる。

 

ならば私は捻くれ者の先頭に立とう。

自慰

一番はじめのブログのタイトルに、「自慰」とつけるのはどうなんだろう。すくなくとも、私はそんなブログを絶対に読みたくない。

 

ブログを開設してみようと思ったきっかけは、便意や自慰行為のようなものに近いかもしれない。それか若しくは吐瀉物のようなものだ。いずれにせよ、至極まっとうな思考回路を有している人間が、他人の目に入れようと思うようなものではないことだけは確かだ。つまるところ、明確な意思や思惑は存在しない。

 

無駄に夜を更かしたせいで当然のように朝寝坊をして、誰かからの後ろめたさを抱えながら日中を過ごし、夜風とともにあらゆる罪が見逃される街に溺れて、そして結局夜を延長する生産性のない生活の繰り返し。

 

そんな生活のなかでも、私にはどうしても吐き出したい、吐き出さなければならないと思う事柄に触れる瞬間が度々ある。それは、社会的価値もなければ、誰かの共感を得ることも、誰かを救うこともないかもしれない。まさに、終電の時刻が過ぎ去った後の渋谷にぶちまけられる吐瀉物のようなもの。

 

カラダのどこかの拍子が狂って、自分の意思とは相反して外に出てしまう行為は、後悔を抱くことが確約されているようなものだし、それはそれは恥ずかしい。自慰行為だって、恋人の前でも見られたくないでしょ、普通は。

 

私にとって、Twitterに写真をあげたり、言葉を繋ぎあわせたりすることで、なんらかのメッセージを発信するというのは、上述したような行為に近い。簡単に言うと、自己顕示欲を偶像にしたものがTwitterだ。如何せん、言葉を吐き出すことについては留まるところを知らず、他人様のタイムラインを汚すこともしばしばある。きっと、ミュートをしているあなたは正常で、全部チェックしているあなたは異常だ。しかし、そんな異常なあなたはとっても愛おしい。

 

しかし、そんな愛おしい人でさえ、汚いものをずっとは見ていたくないだろう。

 

これからはブログにてまとまった言葉を綴っていこうと思う。

 

至極私的な散文になってしまったが、異常なあなたには稀にでよいので覗いて欲しい。

 

それでは、また。