奈辺書房

不確かなこと日記。

善とは

「思いやり」ってなんだろう。 

 

世間一般に云う「優しい人」は、自己犠牲を顧みず、他人のために行動する人のことだろうか。

 

とすると、「みんなのために頑張ります」と宣言する人は、一見すると優しい人であるように思える。

 

しかし、本当にそうだろうか。本当に優しい人は、自ら「相手のために」頑張ることを宣言するものではないと感じる。

 

震災があると、ボランティアをおこなう人に対して偽善かどうかについてスポットライトが当てられることがある。

 

私は、その議論について心の底からどうでも良いと思う。結果として、誰かが助かっていれば良いじゃないか。やらぬ善よりは、益をもたらす偽善の方がよっぽどマシだ。

 

本来、完璧な善は本人の意図するところに存在しないと思う。つまり、本人が意図せずおこなった行為が結果として誰かを救うことが、完璧な善に近いと云うことだ。

 

ともすれば、「みんなのために頑張ります」という宣言は、結果として誰かを救っているならば完璧ではないにしろ善であり、「優しい」言葉であるとも思える。

 

けれど、「みんなのために頑張ります宣言」は、往々にして「優しい私」をアピールすることが目的になってしまう。そればかりか、周囲に要らぬ期待を抱かせてしまう可能性さえある。

 

それはなぜか。結果として誰かを救いたいなら、黙って行動すれば良いし、宣言する必要なんてないからだ。宣言することで、相手を救う準備があることを示したいなら、具体的な行動を述べよ、そしてやり遂げよ、と思う。宣言する権利を行使するものには、自覚せずとも責任が宿るはずだ。たいていの宣言者は、いざとなれば逃げるし、都合が悪くなれば責任転嫁すると個人的に思う。

 

世間一般で認識されている「善」や「優しさ」は極めて無意味で、人間的で、実益がない。

 

このような論理を唱える人間は、俗に「捻くれ者」と呼ばれる。

 

ならば私は捻くれ者の先頭に立とう。