奈辺書房

不確かなこと日記。

反発するという溶け込み

写真を愛する人達は「インスタ映え」という言葉に対して、あまり良いイメージを持っているとは思えない。

 

「私たちは好きで撮っているだけなのに、そうやって馬鹿にしたような感じで括らないで!」と言った感じで。

 

概ね気持ちはわかる。

 

ただ、中にはそういった反発を利用してポジションを取る人もいる。ずる賢いと言うか策士というか。

 

もう少し詳しく説明すると、例えば僕は高校生の時に大人に混じってバンドをやっていて、「ほかの高校生のコピバンと一緒にしないでほしい」というプライドに似たイキり方をしていた。

 

そんな中、「高校生と大人で一緒にライブをしよう」みたいな企画に誘われたことがある。企画者の意図としては、音楽はおんがくなんだから世代の垣根を無くそうぜってことだったと思うのだが、そもそも高校生バンドという肩書きを利用して活動していた訳ではなかった僕らは「高校生」という枠組みにはめられてしまったことにあまり気持ちよく思わなかった。

 

しかし、そこで「高校生って枠組みにはめるな!」というイキリ方をしてしまうと、結果的には「高校生という枠組みにはめられた我々」というポジションを取っている時点で、文脈に乗っかってしまうのだ。

 

これが結構ダサいなと思う。

 

反骨精神ってのはクリエイティビティを発揮する材料やモチベーションにはなるのだが、それは具体的な行動や結果に適用すれば良いだけで、態度で示して自己満足に浸るのは如何なものかと思うわけだ。

 

インスタ映えに関しても同じである。周りはそのように言うかもしれない。しかしそれは、別に軽蔑しているからではなくて、写真を愛する人よりも写真に対する意識が高くないからというだけだったりもする。ムキになるのも馬鹿らしいというか、まあ私はこういうスタンスでやってますから好きに受け取ってくださいな、という方が潔が良いのかもしれない。