奈辺書房

不確かなこと日記。

想像力と数百円。

タイトルは糸井重里氏の名コピーです。

 

ここのところ、

「思う」と「思い至る」。

「言う」と「言いそびれる」。

「伝える」と「伝わる」。

のような違いについて、その間にはどれだけの距離があるのだろうと考えを巡らせています。「考える」にしたって「考え尽くす」とでは違ってくるはずです。

 

「考える」が一瞬の行為なのであれば、

「考え尽くす」は作業の連続?

または広さや深さ、奥行の違い?

 

「思う」が主観だとすれば、

「思い至る」は主観と客観の結び目をのことなのでしょうか。

 

「言う」に意思があったとして、

「言いそびれる」で道半ばにして途絶えてしまったのなら、

「言う」と「言いそびれる」の狭間にあったそれは何なのでしょうか。

 

「伝える」ということは、

「伝わる」ための願いであったということが、往々にして忘れられているような気がします。

 

言葉には人それぞれの純度や密度、解像度があり、匂いや風味、手触りもまた微妙に異なるようなのです。

その違いを尊いと感じられる人は、きっと美しい人なのだと思います。

 

けれど僕には言葉がとてつもなく味気のないものに感じられる瞬間があります。

暫くの間、言葉とは目も合わせたくない時だってありました。

 

そんな時に筆の先で線をなぞってみても、言葉の海を航海するが如くページを捲ってみても、ただ文字の羅列が宙に浮くばかりで無力でたまらなくなるのでした。

 

言葉の前には、言葉になれないなにかが整列していたはずで、きっと形をもらえることを待ち侘びていたのだと思います。

言葉よりもまず、そいつの輪郭をはっきりさせてやりたい。そうでなくちゃ、どんな見栄えの良い立派な言葉も無味に感じます。

 

もし、言葉の前で順番待ちをしているそいつの輪郭がはっきりしさえすれば、別に言葉なんて要らないんだと思います。

例えば、疑いのない強さの抱擁で愛が伝わるなら、それはもう手を施す必要はないのだと思います。