奈辺書房

不確かなこと日記。

11/21の断片

・迎えること

 

機会を掴み取る勇気と同様に、掴んだ機会を手放さない忍耐が大事だ。そういう話をしようと思ったがうまくまとめられている自信はない。

 

「挑戦する機会は世の中に幾らでも転がっている」という前向きな説を、僕は経験的に信じている。かなり悲観的な思考の僕でさえ、インターネットがある今の時代には挑戦者に対して寛容な環境が与えられていると思う。

 

学びたいことがあれば、その手にあるスマートフォンですぐ情報に当たることができる。図書館に揃っている本を読めば、だいたいのことは知ることができる。それに加えて、映画や音楽は月額1000円程度で享受し放題な時代にもなってきた。会いたい人がいれば、TwitterでDMを飛ばして会うことだってやり方によっては難しくない。

 

そういった環境を活かせば身の丈以上の人に会えるし、身の丈以上の経験をすることも容易だ。望む景色を眺める機会を掴めるか否かは、自分自身の行動力に懸かっている。「自己責任の時代」と言い換えることもできるかもしれない。なんとも自己啓発的な話だが、実際いまの世の中はそんな感じでできていると云って差し支えないと思う。

 

僕はと云えば、掴んだ機会をどれもうまく活かすことができなかったことを幾度となく悔いている。

 

少しずつ近づいて尊敬していた人と話を交わすことができても、信用してくれた人からやりたかったことができる機会を与えられても、理想の女性から愛されても、全部途中で手放してしまった。誰かのせいだったらまだ後悔しなくて良かったのかもしれないけど、全部、全部自分で嫌になって手放していた。

 

機会を与えてくれた人の寛容さに漬け込んで、甘い蜜を吸い尽くして、手に入れたら後はもうどうでも良くなって、そこから掴み続ける努力をを放棄していた。与えられた機会を当たり前のものだと思ったり、自分の力で掴み取ったんだと慢心していた。いつの間にか、掴んだ機会をありがたく思えなくなっていた。情けないほどに怠惰だ。

 

たとえ、夢にまで描いたような機会を迎えにいく行動力があったとしても、それを掴み続ける忍耐力がなければ虚構の夢だけが砕け散ってすべてが終わる。描いた景色に向かって最初の点を打ったのに、理想の輪郭さえなぞることもないまま自分の方から機会を手放す虚しさは形容し難い。

 

このままではいけないと焦った僕は、意識して自分の気持ちに余白をつくることにした。両手で溢れかえる希望を抱えきれるほど、幸せが似合う人間ではなかった。だから、しばらくの間、求められる機会を受動的に待つことにした。目の前にちらつく希望に溢れた機会を逃す罪悪感は計り知れなかったものの、抱えきれなくなって途中で手放す虚しさを味わうよりは随分とマシに思えたからだ。

 

すると、思いも寄らないことが起きた。自分から働きかけなくても、機会の方が向こうからやってくることが増えたのだ。会いたい人の方から声がかかり、やりたかった仕事を頼まれたりもした。

 

もしかしたら、能動的に機会を掴もうとしてきた貪欲さの正体は、誰かから必要とされないことに対する陳腐な不安だったのかもしれない。きっと、必死になっていろいろ掴みとろうとしていたのは、見かけ倒しのハリボテでもいいから、何もない自分に少しだけでも価値を含ませてやりたかっただけなのだ。

 

本当は、大事なものを抱えきれなくなるまで掴みとって、不安を埋める必要なんてなかった。

 

今日はそういう話。やっぱり、うまくまとまらなかったな。