奈辺書房

不確かなこと日記。

11/12の断片

・暇の正体

 

普段使っている「暇」という言葉のイメージと実際の状況には、些か看過できない乖離がある。暇ってなんなんだ。

 

実際、「暇だ」と思ったり口に出しているシーンを思い浮かべてみる。その時、スマホを手に取れば、知りたい情報にアクセスして見識を深めることも、関心のあるコンテンツを動画や音楽、活字などの形で手早く享受することも可能だ。そもそも、人生を長期的に見据えて、今やるべきことだって手元にある。

 

これは暇ではない。全然暇なはずないのだ。むしろ忙しくあるべきだろ。

 

僕の思う「暇」のイメージは、すべてやることが片付いたり、手元に一切時間を潰すものが存在しない状況のことだ。けれど、実際に暇だと言うシーンは、大量の選択肢が溢れた結果、自らがそれを選択できなくなっている状況のことを指している。

 

もしかしたら、暇は暇なのではなく大量の選択肢に思考を殺されているだけなのかもしれない。

 

 

・最期を考える

 

もし、一週間後に死ぬとしたらしておきたいこと、遺書にしたためる内容、出棺される時のBGM、人に見られたくないフォルダの名前や検索履歴、生前関わった人達からの評判等、考えれば考えるほど今の時間を浪費しているんだと痛感する。

 

今の僕は死ぬことさえも価値がない。大手広告代理店に入社して過労死するとかそういうことでもしない限り、何の意味もない死を迎える。誰かが感動的な弔辞を読んでくれるほど立派に生きてきた自信もない。

 

一週間後死ぬとしてもしたいことなんてほとんど浮かばないし、死んだ後に読まれる文章なんて書くつもりはないし、出棺の時にセンスを問われるのも嫌だ。パソコンは再起不能になるようにぶち壊してくれ。僕が死んでもなにも思わないで欲しいし、僕の言動や諸々に好き勝手文脈をつけないで欲しい。

 

僕抜きでも、それまでと何も変わらずしっかり世の中は回ってほしいと願うけど、心配するまでもなく何も変わることはない。すこし悲しいけど、その方が思いを巡らすこともなくて良さそうだ。