奈辺の日記

不確かなことを綴ります。

僕が写真に自作の言葉を添えない理由

言葉が添えられている写真をTwitterでたまに見かける。

それ自体は各々の表現の自由であるし、なかには巧く写真のイメージと絡み合って相互に良い作用が働いているものもある。

しかし、ポエムのような言葉遣いだが詰まるところなにを言ってるのかわからない、ぺらっぺらで0.03mmくらいしか厚みがないんじゃないかと思う言葉が添えられていることもある。

それはなにもTwitterに限った話ではなく、アーティストの歌詞や新人小説家の言葉においても確認できる場合がある。

端的に言えば、悲しい。ダサいし恥ずかしいし見てらんない、という感情よりもまず悲しいと思う。

せっかく良い写真なのに、それ自体で観る側の心を魅了してなにか伝えることができているのに、どうして言葉だけ粗末に扱うんだろう? すべての表現は言葉で思考されるはずなのに、どうして向き合わないんだろう?

こうやって人の投稿を見て思うこともあるが、なにより自分の行いに対しても批判しなければならないところがある。

このつぶやきにある通り、かつて僕は尊敬するコピーライターにこんな言葉をかけられたことがある。詩的な文章に憧れて、それらしい語彙を用いて、なにも伝えることがない文章を書いていた。そんな文章は、誰のこころも動かさないし、なんの価値もない。そんなことに気づいていながらも、自己顕示欲とか見栄みたいな陳腐な感情に突き動かされて、ただただ駄文を連ねていた。

思い出しても恥ずかしいし、できるならそんな過去は消し去りたいが、事実は変わらない。

ただひとつ僕が恵まれていると思うことは、その見え透いた自己顕示欲や見栄のようなものを指摘してもらえる人に出会ったことだ。それでも、未だに治っていないところはあるけど、学生をしながらもライターやエディターとして仕事をもらえるくらいには成長した。

言葉と誠実に向き合う意識は持てたはずだ。だからこそ、こうやって駄文でも伝えたいことは晒し続ける。

だいぶ話は逸れてしまったが、それだけ言葉は重いものだし、飾りなんかじゃないんだ思ってるから、安易な気持ちで写真に添えたりはしたくない。たまに、著名な作家の言葉を拝借したりすることもあるけど、自作の文章を作品に添えるのはまだ抵抗があるし、自信はない。

それに、自分で作品について語り過ぎたくはない。どんなものでも、詰め込みすぎると解釈は狭まってしまう。僕はそれが心底つまらないと思う。写真と言葉を絡める場合、相当神経をすり減らして考えなければならないと思うから、今の僕にはなかなか足が出ない。

要するに、「逃げ」だ。言葉を添えて解釈を限定させることで、作品が良い方向へ向かうことだってあるはずだ。

それでもやはり、今の僕にはなかなか難しい。足掻いてみようと思う。