奈辺書房

不確かなこと日記。

自己分析

自分について考えを巡らせることは、わりと好きな方だ。

誰に心配されることもなく、自分を愛することはできる。自己愛は強い。

 

しかし、それと自己分析はまた話が違うようだ。例によろしく、僕も就職活動という荒波に突入することになった。とは言え、片足を突っ込むどころか、今はまだ遠くから外観を眺めているに過ぎない。

 

どうやら、就職活動、略して就活というものにはエントリーシート、面接、SPIといった面接や試験が課せられるらしい。

 

SPIとやらは勉強するしかないのだろう。困ったのは、エントリーシートと面接だ。なぜなら、提出先の企業に対する志望動機や自己PRというものを書かないといけないからだ。

 

志望動機なんて「できるだけ楽してお金を稼ぎたい。願わくば、働きたくない」くらいなものだ。きっと、この国の憲法に勤労の義務なんて明記されていなければ、もっと堂々と働かないことを宣言できる世界になっていたのではないか、とないものねだりをしてみる。

 

自己PRに関しては、別にわざわざ企業様に雇ってもらうために言うようなことは持ち合わせていない。だって、「たまに寝坊するし、やる気がなくなる時もあります。それに、できるだけ家にいたいので出社したくないですが、そこそこ先見の明はあると思います」なんて正直に言ったものならば、「これだから学生は……」と思われて、書類の角を揃えてから一呼吸置き、重めの溜め息をつかれてしまうだろう。

 

すこし考えてみればわかってしまうのだが、就活は「働きたくない」ということを前提に、ありもしない志望動機や自己像を捏造するスポーツと言うと個人的にしっくりくる。自己を商材として売る以上、競合よりよく見せなくちゃいけないのは自明の理だろう。

 

さて、さらに困ったことがある。僕は善良な市民の上に、幼き頃から先生や親より「嘘をつくな」と教えられてきた。何かを守るための多少の嘘は許されるかもしれないが、自分の利益のために嘘を捏造するなんて許されて良いものなのだろうか? 僕は良くないと思う。

 

恐らく、多くの学生はこんな葛藤を抱えながら暑い中スーツに身を包んでいるのだろう。ちゃんちゃら可笑しいのはわかっていて、それでもそれを真剣にやらないといけないのだから、大抵の人間は気が狂う。上位何%かの人間は、既に狂っていてこういうことはそつなくこなせたりするらしい。所謂、意識高い学生だ。

 

気が狂う要因の割合を多く占めているのは、自己分析ではないだろうか。世間一般の人間が、自己の価値や可能性について深く考えることなんてそうそうないだろう。それこそ、アーティストなんかは嫌でも向き合っている。インタビューでも求められるし、素直に語ったことは誰かにとってとても大きな価値があるだろう。それは、アーティストの話を求めているからであって、簡単に言えば需要に対して供給をされているという市場が成り立っているのだ。

しかし、我々一般人の場合、そのままの状態では需要がないようだ。その証拠に、先述したような志望動機や自己PRを素直に語れば、まず変な企業以外落とされるはずだ。それで受かる変な企業があれば、ぜひ教えて欲しい。

 

つまり、一般人が就活するうえでは、自己分析は「加工」をしないといけないのだ。辻褄が合わないと良くないので、大嘘は良くないが、多少の誇張や言い回しの仕方は工夫することができる。相手によって言い方を変えることで、伝わり方も変わる。本当に広告と良く似た考え方だと思うのだ。

 

クライアントは課題を抱えていて、そこに対して我々就活生は解決策を提案する。

 

きっとそれだけの話だ。自己分析と言う名前が良くない。良くないというか、何か言葉が足りない。自己提案と言うべきではないか。分析はたしかに必要だ。だが、本当に求められているのは分析をすることではなく、提案することだ。そのために必然的に分析はセットになる。

 

話がぐちゃぐちゃになってしまったが、要は素直に自己分析をしなきゃいけないと考えると就職活動はややこしく感じてしまうので、相手の企業が抱えている課題を解決するために、自分を雇うという策を提案する点に重きを置いて考えてみれば、すこし楽になるのではないか、と思うわけだ。

 

とどのつまり、働きたくないことには変わりはない。

 

しかし、対価を得て成果物を提供するような仕事であれば、それなりのクオリティを担保しないといけなくなるし、自分のスキルやらタスク処理能力、社会的価値は嫌でも上がることになるであろう。そこに対しては、結構魅力を感じるし、魅力を感じたつもりにでもならなければ働くなんてできないだろう。

 

楽して楽しい仕事ができますように。