奈辺書房

不確かなこと日記。

お節介

世の中、お節介な人で溢れている。

 

 

私は何かに取り組む時に、ある程度骨子ができあがったら、人の意見を取り入れてみようと思って意見を仰ぐことがある。自分が届くと考えたものは、必ずしも人に届くとは限らない。だから、人の意見に耳を傾ける。

 

しかし、時に人の意見はまったくもって宛にならないことがある。特に、やりたいことがない人間の意見は聞くに値しない。

 

同時に複数のことをこなすこと、ひとつのことに集中して取り組むこと、どちらも一長一短なところがある。やりたいことがない人間は、ものごとに取り組むときに並行して取り組むべきか、ひとつの集中するべきかを判断できないのだろう。

 

かなり抽象的な話なので、具体例を挙げよう。

 

例えば、写真を撮る時。もちろん、写真を撮るというのはファインダーやモニターを覗き、シャッターを押すことにほかならない。しかし、その際切り取れる光景は、基本的に撮影者がそれまで積み重ねてきた知見や潜在的意識の枠を超えることはない。空を意識したことがない人は空を意識して撮ることはないだろうし、女性の横顔に魅了されない男は、横顔を何百枚も撮ったりはしない。もちろん、写真には偶然性の内包も考えられるし、それが写真の恐ろしいところではあるが、「基本的」には写真が撮影者の器を飛び越えることはないのだ。

 

だとすると、良い写真を撮りたいと考えた場合、訓練しなくてはならないのは「写真を撮る」ことだけだろうか。

 

私はそうは思わない。「撮影技術とは直接関係がない」思考や経験を積み重ねて、それをファインダーの先に反映できるレベルにまで持ち上げられるか、そういう意識も必要になってくると思う。そのためには、膨大な量の小説や詩歌に触れたり、カメラを持たずに街へ繰り出すことだって、写真を撮るという行為に活きてくるのは必然なのだ。写真が秘める「偶然性の内包」に頼ることを許されているのは、本人の意思を別にして才能を得てしまった者だけだ。我々凡人には関係がない。

 

撮りたい写真がある場合、必ずしも写真のことだけを考えてはいけない。作詞、作曲、建築、デザイン、スポーツ、経営、なんにだって言えるのではないだろうか。

 

しかし、我々人間の時間は有限だ。いつまでも、無駄なことに手を伸ばしてはいられない。いろいろ思案した結果、削ぎ落とす必要だってある。そしたら、後は突き進むのみじゃないか。これらの過程に、他者の意思は介在させる必要はないと思う。なぜなら、実際に行動するのは自分で、そのモチベーションも自分にしかないからだ。

 

そういった持論を踏まえて言いたい。

 

お節介な善人ほど厄介。まるで、相手のことを思っているかのように、まったく役に立たないばかりか、自分でも知らぬうちに悪影響を及ぼす最悪な「アドバイス」を与えてくる。

 

自分で選んだことは、自分で成功したり失敗したりしないとわからないものだ。

 

他人に自分の人生の選択権を握らせてはいけない。