奈辺書房

不確かなこと日記。

いつもより永く静かな夢

視界が閉ざされてからいくらか時が過ぎた。目の前にすこしずつ映像が流れてくる。わずかに音は鳴っているようにも思える。自分と世界の境界線が曖昧な感覚がある。これは夢だ。

 

夢が夢だと気づいた時には、もうどれだけ夢に浸かっていたのか覚えていない。わかることは、たしかに生きている時とは感覚が違うことだけだ。この夢はいつ終わるのだろう。自分の意識とは別に、映写機が夢を流し続ける。いま、自分しか存在しないこの世界に彷徨い続けている実感はたしかにあるのに、どこか言いようがない安心を覚えたことが不思議だった。

 

本当は人の目を気にしたり、張り詰めてものごとに取り組んだり、自分じゃない誰かのお面を被って過ごさなくてもいいんだという許しで満たされているような感じがする。しかし、映写機で映されている内容はあまり穏やかなものではなく、もう思い出したくなかった記憶が姿形を変えて現れているようだった。

 

その映像には、僕が幼かった頃の両親のやさしさとか、兄弟と遊んだ公園の遊具とか、もう忘れてしまった喜怒哀楽とか、いまはもう悩むことなんてないものへの焦りとか、好きだった恋人とか、見たことがないのに五感では覚えている気がする景色とか、そんなものの断片がなんの脈絡もなくスライドショーのように浮かび上がる。

 

夢が途切れる瞬間と目が覚める間には、数億年の月日が経っているように感じる時がある。もしかして僕はおじいさんになってしまったのか? と思うほど長い時間が流れていたように感じて、額に流れる汗はそういう実感を紛れもなく受け止めた証なんだろう。

 

しかし、今日だけはいつもと違った。たしかに夢が途切れたはずなのに、いつまで経っても視界がひらけない。いったいどういうことなんだろう。誰かに尋ねてみようと思ったものの、体は動かない。その瞬間、全身に不安が染み渡る。一瞬躊躇ったが、これが死ぬということなのかと確信する。そうか、こういうことか、案外悪くないなと縁起の悪いことを考えてしまったが、世の人が言うほど怖いものじゃなかった。

 

死んだら、ただこの意識が途絶えてもう二度となにも感じることがないのだという感覚は、安心という言葉で表すのが一番容易く、すべてを許されるという感覚にも近かった。それと同時に、いままで言葉にできなかったすべてが言葉でも色でも光でもない、はじめて知る感覚で浮かび上がってきた。ああ、これが幸せってことなんだ。僕はそれまで幸せって言葉の意味を知らなかった。僕だけが知らないその言葉の意味をたしかに感じ取った後に、いつも通り目が覚めた。

 

時刻は15時、既に講義に間に合う電車の発車時刻は過ぎていた。そうしてまた今日も、額の汗は後味の悪い二度寝の仕業だったことに気がつくのだった。

 

説明できないから、好きなのかもしれない。

明け方に近い夜だけど、どうしようもない感覚の話を連々と。

 

白ほど綺麗でも黒ほど汚れてもいないけれど、曖昧というほどに無責任ではない。

 

持ち前の詰めの甘さは、淡くて儚く脆い抽象的な世界観と喩えれば一応の格好がつくが、紛れもなく今直面している事実やそれを解釈する思考、周辺に存在する客観的な世界を捉えるための現実的な視点は失いたくない。

 

幻想的というほどの儚さはないし、絶望するほど底の深さはなくて、中途半端と言えばその通りな情けないグラデーションのなかで、泳ぎ方を知らない子どもの如くもがいている。

 

社会貢献、誰かのために、人のためになりたい、そんな感情が一切ないわけではないが、優先度は極めて低い。自分を幸せにできない人は、他人の幸せをこころから願うことなんかできない。

 

知らないことを知りたい。知ったことでなにかまた別のこと知りたい。そうしたらなにかもっとすごいものが見える気がする。知ることで、今の自分を否定して全部ぶっ壊せる気がする。自己破壊の果てになにかあると信じてやまない。

 

感じたこと、抱えていること、伝えたいことを形にしたい。そして誰かに認めて欲しい。ありのままの自分を愛して欲しいなんて絵空事を描いてみたこともあったりけれど、それよりも自分の身を削りながら積み上げたものを愛してくれた方がよっぽど幸せかもしれないし、今はその方が性に合っているように感じる。

 

SNSで自慢するための交流も、一夜限りの関係も、その場しのぎのやけ酒もいらない。死後になにか偉大なものが残らなくてもいい。

 

ただ、こんな自分でもたしかに存在していることを、嘘偽りなく全身で受け止められる感覚が欲しい。

 

いつになるかわからないけれど、いつかその瞬間が訪れたら、もっと遠く深くまで行ける気がする。この感覚だけを頼りに、もうすこし歩いてみたい。

 

説明できない感覚は自分だけのものだから、焦って言葉で縛りはしたくない。説明できる言葉と出逢うまで、この感覚を胸に抱いて少々待ち草臥れようと思う。

おもさ

僕やあなたが思うよりずっと言葉は重くて鋭い。

 

きっと言葉なんて、

意味を含む羅列であるより、視覚的な音の連なりである方がずっと良い。

 

紙の上を行軍する文字の群れが、

ひとりの人間の生き様を投影していたとしても、

大勢の意見を巧みに集約していたとしても、

誰の憂いに刺さることさえなく、

眼前の彼女の涙腺を揺さぶることもないほど軽薄で良い。

 

体温のない重さは罪だから。

涙の行方を知らないあの人が必要としているのは、そんな重さじゃないから。

 

ハッピーエンド

昔見慣れた景色とすこし伸びた髪に思いを馳せて、東京に戻る新幹線に乗った。

 

それまであった常識とか確固たる理想を、芯からぶっ壊してきた音楽をつくっていたあの人は、いまカフェの店員をしているらしい。

 

学生生活をユーモア豊かに綴ったブログを書いていたあの人は、いまなにをしているんだろう。SNSで小説を書いていたあの人も、いまはなにをしているのかわからない。

 

 

きっと、みんなそれぞれの人生を歩んでいる。僕の人生に影響を与えた人達は、また別の誰かの人生に影響を与えているのかもしれない。

 

久しぶりに投稿されたfacebookの事務的なメッセージが、やけに意味を帯びているように思える。

 

あの人は長かった髪を短くした。ゆるくかかったパーマと茶髪は、やはり似合っていなかった。

 

夕暮れに染まる街を眺めると、どうしても昔のことを思い出す。あの時、道が別れたあの人たちが、今どうしているのかすこしだけ気になる日の話。

返答すること

最近嬉しかったことの話。

 

すこし前に、Twitterで「お題箱」というものを始めてみた。これは、匿名で自分宛に意見や質問などを募ることができる外部ツールだ。

 

お題箱とある通り、写真に対するお題なんかを頂戴することに適しているツールなのだが、蓋を開けてみると僕に対するコメントが多く並んだ。

 

普段から写真やツイートに対してコメントをくれる方は何人かいて、僕はそれがとても嬉しかった。

 

昔から、自分が思ったことや感じたことを誰かに知って欲しかったり、僕と同じように感動してもらいたいと思う欲求は強くて、Twitterを通してその経験ができることが実感できたからだ。

 

お題箱を設置してから、今までとは別のタイプの方から意見をもらえるようになった。別のタイプとは、「本当は僕になにか思ってるけど、それを言いづらい」人だ。

 

例えば、

・尊敬している人はいるか

・僕の影響で映画を観た、他におすすめはあるか

・どんな女性が好きか

・僕の言葉や考え方が好き

・なーべさんっ

・胸は大きい方が好きか、否か

といったコメントがくる。

 

どれも、僕にたいして少しでも関心を抱いていてくれていることがわかる。一応、広告業界を目指す学生なので、僕が勧めた本や映画に触れてもらえたりすることは筆舌に尽くし難いほど嬉しい。(僕の存在でモノが売れるんだ!って)

 

承認欲求が満たされるどころか、僕の承認欲求の受け皿では溢れかえりそうだ。(コメントしてくれる方、本当にありがとうございます。割とマジでその日1日嬉しいし、思い返して元気をもらっています)

 

しかし、質問への返答にはいつも頭を悩ませる。僕は捻くれ者だから、そのまま答えるのもなんか違うな、と思って気の利いた答えをだそうとする。できれば、めっちゃウケたい。僕は大喜利が結構好きなので。

 

「好きです」とか「わたしのこと好きですか」なんてコメントがくると、こちらとしては身構える。「ありがとうございます」じゃ、芸がないよな、と。いや、ありがとうございますで良くね?とも思うのだが、僕は読者モデルじゃないんだし、そんな好きと言われることを当たり前のように受け流すのも、自惚れていてウザイなと思うのだ。

 

だから、せめて「そう来るか」を返したい。的を射ている言葉ではなくても、「ああ、そういう考え方もあるか、やるじゃん」と思わせたい。いや、そんなこと求められていないのかもしれないけど。これは、勝手なこだわりだけど、ドヤり過ぎないやつがいい。ドヤってるのにスベってるのは本当に悲しいから。

 

そういえば、お題箱で「僕の写真に写りたい」と言ってくれていた方(当然、僕からは相手が誰かわからないけど、後で告げてくれた)と、撮影することになった。不思議なもので、僕も彼女を撮影したいと思っていたし存在を気にしていた。

 

たしか、焼き鳥屋にてひとりでお酒を飲んでいる時に連絡を取っていたと思うが、やり取りは気持ち良いほどスムーズだった。

 

なんだか、こういう偶然があるので人生は楽しい。もし良かったら、またお題箱にコメントをもらえると嬉しいです。

 

 

素敵ですね

変な加工を施された写真、

誰のことも想っていない言葉、

その場しのぎの明るい振る舞い、

性を安売りする女、

答えなんて求めていない恋愛相談、

既読代わりのいいね、

アイドル気取りの寒い自虐、

歳だけくった老害の説教。

 

を纏めて全部メルカリで売ったら300円以上になるかな?

予告の誘惑

予告と云ったら、あなたはなにを思い浮かべるだろうか。

 

僕は、真っ先に映画館で本編の前に流れる予告を思い浮かべる。もう良い歳だから、映画館にはひとりで行くのも慣れたけど、予告編を観ている時の胸の高鳴りはいくつになっても子どもの時と同じように感じるのだ。

 

それもそのはず、予告編とは本編を期待させるために、本編に足を運ばせるために存在するのだから、胸が高鳴るようにできている。それにしても、これだけ娯楽が普及した世の中において、映画館で観る予告編というのは群を抜いて胸が高鳴る。予告と予告の間に流れる一瞬の沈黙は演出なのだろうか? 僕はあの一瞬にポップコーンを噛むことができない。

 

皮肉なことに、本編はたいしたことがない映画も予告編だったらおもしろかったりする。ちなみに、僕は映画トランスフォーマーが大好きなのだが、特に予告編はいつも興奮する。なんならあれは予告編が本編なのではないかとさえ思う。蛇足だが、トランスフォーマーは第一部が最高だ。

 

その第一部の予告編を観てもらいたい。

www.youtube.com

 

未知なる存在から侵略される圧倒的な絶望。それを前にした人類はまるで歯が立たない。中東の軍事基地、アメリカ国防総省F-22、ニューヨークでの市街戦 。当時小学生だった私にとって、どれをとっても興奮を抑えられない描写が詰め込まれている。こんなのずるすぎる。

 

トランスフォーマーと並んで好きな予告編がある。

 

www.youtube.com

 

トニー・スタークがテロリストに捕えられて、そこから脱出するスーツをつくるために、洞窟の中で鉄をガンッガンッと打つシーン、学校の工務室?のようなところで真似をして先生に怒られた記憶がある。これもまた最高だ。こういう最高なものに対しては、いつも説明する言葉が見当たらない。

 

紹介しだすとキリがないので、ここあたりで終わりにするが、もちろん上記のようなドンパチした予告以外にも好きなものはある。

 

今回言いたいことは、そんな予告編みたいな人が好きだということだ。

 

まるで普段なにをしているかわからないけど、それに興味を唆るような言葉の使い方、仕草をする人。そんな人はずるい。興味を持たざるを得ない。そんな人にどうやって興味を持ってもらおうかと、思案に暮れる。知りたくてSNSのアカウントを探す。けれど、たいていの場合そういう人は本名でSNSをしていない。そもそも、SNSをしていなかったりする。その癖、SNSで晒せば多くの人間が寄り付きそうな才能や美貌を持っていたりする。なにか仕掛ければ、お金も生み出せるだろう。

 

ここですこしだけ思い返してみる。予告編はおもしろいけど、本編はおもしろくない映画がある。僕が興味をそそられている人も、もしかしたらそんな人かもしれない。つまらない本を読んで、つまらないバイトをして、つまらない相手と寝ているかもしれない。そうだとしたら、ああ、あの人も同じ人間だったんだってすこし安心して胸を撫で下ろせる気がする。

 

それでも、予告編みたいな人は魅力的だ。僕も本編は心の奥に秘めていたい。本編を観られてしまった人からは、なんだこんなもんかって愛してほしい。