奈辺書房

不確かなこと日記。

ハッピーエンド

昔見慣れた景色とすこし伸びた髪に思いを馳せて、東京に戻る新幹線に乗った。

 

それまであった常識とか確固たる理想を、芯からぶっ壊してきた音楽をつくっていたあの人は、いまカフェの店員をしているらしい。

 

学生生活をユーモア豊かに綴ったブログを書いていたあの人は、いまなにをしているんだろう。SNSで小説を書いていたあの人も、いまはなにをしているのかわからない。

 

 

きっと、みんなそれぞれの人生を歩んでいる。僕の人生に影響を与えた人達は、また別の誰かの人生に影響を与えているのかもしれない。

 

久しぶりに投稿されたfacebookの事務的なメッセージが、やけに意味を帯びているように思える。

 

あの人は長かった髪を短くした。ゆるくかかったパーマと茶髪は、やはり似合っていなかった。

 

夕暮れに染まる街を眺めると、どうしても昔のことを思い出す。あの時、道が別れたあの人たちが、今どうしているのかすこしだけ気になる日の話。

返答すること

最近嬉しかったことの話。

 

すこし前に、Twitterで「お題箱」というものを始めてみた。これは、匿名で自分宛に意見や質問などを募ることができる外部ツールだ。

 

お題箱とある通り、写真に対するお題なんかを頂戴することに適しているツールなのだが、蓋を開けてみると僕に対するコメントが多く並んだ。

 

普段から写真やツイートに対してコメントをくれる方は何人かいて、僕はそれがとても嬉しかった。

 

昔から、自分が思ったことや感じたことを誰かに知って欲しかったり、僕と同じように感動してもらいたいと思う欲求は強くて、Twitterを通してその経験ができることが実感できたからだ。

 

お題箱を設置してから、今までとは別のタイプの方から意見をもらえるようになった。別のタイプとは、「本当は僕になにか思ってるけど、それを言いづらい」人だ。

 

例えば、

・尊敬している人はいるか

・僕の影響で映画を観た、他におすすめはあるか

・どんな女性が好きか

・僕の言葉や考え方が好き

・なーべさんっ

・胸は大きい方が好きか、否か

といったコメントがくる。

 

どれも、僕にたいして少しでも関心を抱いていてくれていることがわかる。一応、広告業界を目指す学生なので、僕が勧めた本や映画に触れてもらえたりすることは筆舌に尽くし難いほど嬉しい。(僕の存在でモノが売れるんだ!って)

 

承認欲求が満たされるどころか、僕の承認欲求の受け皿では溢れかえりそうだ。(コメントしてくれる方、本当にありがとうございます。割とマジでその日1日嬉しいし、思い返して元気をもらっています)

 

しかし、質問への返答にはいつも頭を悩ませる。僕は捻くれ者だから、そのまま答えるのもなんか違うな、と思って気の利いた答えをだそうとする。できれば、めっちゃウケたい。僕は大喜利が結構好きなので。

 

「好きです」とか「わたしのこと好きですか」なんてコメントがくると、こちらとしては身構える。「ありがとうございます」じゃ、芸がないよな、と。いや、ありがとうございますで良くね?とも思うのだが、僕は読者モデルじゃないんだし、そんな好きと言われることを当たり前のように受け流すのも、自惚れていてウザイなと思うのだ。

 

だから、せめて「そう来るか」を返したい。的を射ている言葉ではなくても、「ああ、そういう考え方もあるか、やるじゃん」と思わせたい。いや、そんなこと求められていないのかもしれないけど。これは、勝手なこだわりだけど、ドヤり過ぎないやつがいい。ドヤってるのにスベってるのは本当に悲しいから。

 

そういえば、お題箱で「僕の写真に写りたい」と言ってくれていた方(当然、僕からは相手が誰かわからないけど、後で告げてくれた)と、撮影することになった。不思議なもので、僕も彼女を撮影したいと思っていたし存在を気にしていた。

 

たしか、焼き鳥屋にてひとりでお酒を飲んでいる時に連絡を取っていたと思うが、やり取りは気持ち良いほどスムーズだった。

 

なんだか、こういう偶然があるので人生は楽しい。もし良かったら、またお題箱にコメントをもらえると嬉しいです。

 

 

素敵ですね

変な加工を施された写真、

誰のことも想っていない言葉、

その場しのぎの明るい振る舞い、

性を安売りする女、

答えなんて求めていない恋愛相談、

既読代わりのいいね、

アイドル気取りの寒い自虐、

歳だけくった老害の説教。

 

を纏めて全部メルカリで売ったら300円以上になるかな?

予告の誘惑

予告と云ったら、あなたはなにを思い浮かべるだろうか。

 

僕は、真っ先に映画館で本編の前に流れる予告を思い浮かべる。もう良い歳だから、映画館にはひとりで行くのも慣れたけど、予告編を観ている時の胸の高鳴りはいくつになっても子どもの時と同じように感じるのだ。

 

それもそのはず、予告編とは本編を期待させるために、本編に足を運ばせるために存在するのだから、胸が高鳴るようにできている。それにしても、これだけ娯楽が普及した世の中において、映画館で観る予告編というのは群を抜いて胸が高鳴る。予告と予告の間に流れる一瞬の沈黙は演出なのだろうか? 僕はあの一瞬にポップコーンを噛むことができない。

 

皮肉なことに、本編はたいしたことがない映画も予告編だったらおもしろかったりする。ちなみに、僕は映画トランスフォーマーが大好きなのだが、特に予告編はいつも興奮する。なんならあれは予告編が本編なのではないかとさえ思う。蛇足だが、トランスフォーマーは第一部が最高だ。

 

その第一部の予告編を観てもらいたい。

www.youtube.com

 

未知なる存在から侵略される圧倒的な絶望。それを前にした人類はまるで歯が立たない。中東の軍事基地、アメリカ国防総省F-22、ニューヨークでの市街戦 。当時小学生だった私にとって、どれをとっても興奮を抑えられない描写が詰め込まれている。こんなのずるすぎる。

 

トランスフォーマーと並んで好きな予告編がある。

 

www.youtube.com

 

トニー・スタークがテロリストに捕えられて、そこから脱出するスーツをつくるために、洞窟の中で鉄をガンッガンッと打つシーン、学校の工務室?のようなところで真似をして先生に怒られた記憶がある。これもまた最高だ。こういう最高なものに対しては、いつも説明する言葉が見当たらない。

 

紹介しだすとキリがないので、ここあたりで終わりにするが、もちろん上記のようなドンパチした予告以外にも好きなものはある。

 

今回言いたいことは、そんな予告編みたいな人が好きだということだ。

 

まるで普段なにをしているかわからないけど、それに興味を唆るような言葉の使い方、仕草をする人。そんな人はずるい。興味を持たざるを得ない。そんな人にどうやって興味を持ってもらおうかと、思案に暮れる。知りたくてSNSのアカウントを探す。けれど、たいていの場合そういう人は本名でSNSをしていない。そもそも、SNSをしていなかったりする。その癖、SNSで晒せば多くの人間が寄り付きそうな才能や美貌を持っていたりする。なにか仕掛ければ、お金も生み出せるだろう。

 

ここですこしだけ思い返してみる。予告編はおもしろいけど、本編はおもしろくない映画がある。僕が興味をそそられている人も、もしかしたらそんな人かもしれない。つまらない本を読んで、つまらないバイトをして、つまらない相手と寝ているかもしれない。そうだとしたら、ああ、あの人も同じ人間だったんだってすこし安心して胸を撫で下ろせる気がする。

 

それでも、予告編みたいな人は魅力的だ。僕も本編は心の奥に秘めていたい。本編を観られてしまった人からは、なんだこんなもんかって愛してほしい。

 

発明家の美学

心地よい空気の振動に身をまかせること。たったそれだけのことに、喜怒哀楽すべてがどうにか報われるような気がした弱さを時々思い出す。

 

頭を掻きむしる左手は、道端に立ち竦む誰かに差し伸べる右手より強かった。左脳では慰められない感傷のために、右脳は言葉にならない言葉を浮かべる。

 

もしも人生がひとつの唄だとしたら、きっとCメロの辺りを幾度も再生すると思う。そのうちテープが擦りきれて、最後のサビは聴けなくなるかもしれないねと言った誰かのジョークは、MP3プレーヤーの誕生によって指先で埃を弾くように打ち消された。

 

テクノロジーは身体を拡張し続けるか。それともいつか、身体そのものを超克するか。いつか、明けない夜が発明されたとしたら、そこに月の明かりは再現されるのだろうか。

消費の断片

磨り減ったスニーカーの底、残り2本になった煙草、購入したカメラは中古。

高額になった公共料金は、あまり外に出なかった証。それなのに、洗濯物は溜まる一方。

夢中になれた音楽は今や移動中に聴き流すだけ。ライブハウスに足を運ぶことも無くなった。活字は読む気になれず、読書家の気持ちなんてまるで理解できそうにない。観たかった映画は、いつの間にか公開を終えていた。

 

なにかになったフリ、なにかを好きになったフリ、誰かを思うフリばかりが中途半端に上手になった。

 

わけもわからず明るく振る舞うあいつが嫌いだった。持論を振りまくあいつはどうしようもなく痛く思えて、つらくて見ていられなくなった。海外から来たコンビニの店員は、いつの間にか日本語がうまくなっていた。その間僕は、なにかひとつでも前に進んだのだろうか。

 

1時間1000円で消費される日々が嫌になって、途中まで書いた履歴書はぐちゃぐちゃにして捨てた。はじめは丁寧にしていた連絡も今は返していない。

 

時代のせいにできたなら、いくらか楽になるだろうか。他人のせいにできたなら、すこしは自分を愛せただろうか。

 

抜け殻みたいな自分と地面に落ちる灰殻を見比べても、遠くから見れば何も変わらないかもしれない。

 

こんな僕だとしても、なにか残せたらいいな。いつか、消費を抜け出せたらいいな。

まずはそれより

出会ったすべての人に感謝するよりも、

目の前にいるその人を大切にしたい。

 

「がんばれ」よりも、

相手の可能性を信じたい。

 

口先だけの言葉よりも、

伝わる行動を与えたい。

 

インターネットの拡散よりも、

隣にいる友達に想いを伝えたい。

 

零れる弱音を抑えるよりも、

綺麗な言葉で飾ることをやめたい。

 

「みんな」に向けるよりも、

「ひとり」と向き合たい。

 

人は思ってるより強くはないけど、

実は身近なことから変わることができる。

見えないなにかに不安になるけど、

実は身近なところにヒントが転がっている。