奈辺の日記

不確かなことを綴ります。

おもしろいこととの関わり方

昨今の世の中では、「おもしろい」ことについて純粋に向き合うことが是とされている。そもそも、何がおもしろいのかといったことを抜きにして。

 

自分がおもしろいと思うことを作り出し、他人にもおもしろいと思ってもらうことに価値を見出した人間はクリエイターにならざるを得ないのかもしれない。当然、おもしろいことを再現する過程や、それに対する評価を考えることなどに産みの苦しみが伴うので、独特の人間性が培われる。私は、そんな人達がおもしろいものに向き合う視線がたまらなく愛おしいと感じる。

 

おもしろいものは必ずしも広がらない。おもしろいと思う可能性を秘めた人に対しても届かないことが多い。それはなぜかと言えば、おもしろいものと広がるものは大きく異なるからだ。例えば、私は音楽が好きで、メジャーかマイナーかは問わず魅力的な音楽を自分の足で探して聴いている。すると、マイナーな音楽でも素晴らしく魅力的なものは多く存在するのに、広まっていないことが多い。それは、リスナー側が単純にその音楽の存在を認知していなかったり、聴き方を把握していないことが起因していると思う。

 

私は、こんな状況が悲しいと思いながらも、いかに広められるかを考えることが楽しい。それは、対象への理解を深めなければ、人には説明できないし、広め方のアプローチも見つからないからだ。見つかってしまえば、どうして広まっていないのかもわかる。

 

おもしろいことについての関わり方は、作る側だけでなく広める側で異なるが、よりおもしろくしたいという思いさえあれば、より素敵なものになると思う。

映画『怒り』を観て

今更ながら『怒り』を観た。ネタバレを多分に含むので、まだ観ておらず結末を知りたくない方は、このページを閉じていただきたい。

 

正直申し上げると、一度目は流して観ていたこともあってか、内容も登場人物の感情もよく分からなかった。だからもう一度観てみたところ、なんとなくこの映画の言わんとしていることがわかった気がしたが、相当複雑に人間の感情が交錯している映画だと思う。

 

特に、僕はこの映画の中で田中の心境に考えさせられるものがあった。

 

田中は八王子の夫婦殺害事件の犯人だ。市橋達也の事件を想起させるのだが、モチーフになっているのだろうか。

 

田中は一見すると人の良さそうなバックパッカーだが、どこか自分の感情を抑えられないところがある。突然、雇われ先の宿で客の荷物を乱暴に投げたり、暴れ回ったり。

 

彼の背景に何があるのか、劇中では一切描かれていないが、世の中に対するやり場のない憤りや、捨てきれない自分への期待のようなものを抱えているように見えた。どうしても、それらに耐えきれず何かを傷つけることで一度は冷静になれるようだ。

 

そんな行為を、少なくとも今の世間や法律は許しはしない。

 

僕たちは許されないことを、我慢する。我慢できないことは、そもそも思わないほうが良い。そうして、自然に湧き上がった感情はそもそも抱かないようになって、忘れる。我慢することに耐えられなくなった人間は社会から排除される。

 

これは僕たちが安心で平和に生活できるようにするための人類の知恵であって、動物性への忌避である。

 

僕は、忌避された動物性は愛によって救われると思っている。愛は、人間に許された唯一の動物性の隠れ蓑であって、本来それはInstagramで公開されるものでも、付き合った期間を記念のように刻むものでも、わざわざ写真に残すものでもないと思うのだ。 

 

愛は社会的ステータスとは無縁であって欲しい。

 

『怒り』を観て、そんなことをぼんやりと思った。

自己分析

自分について考えを巡らせることは、わりと好きな方だ。

誰に心配されることもなく、自分を愛することはできる。自己愛は強い。

 

しかし、それと自己分析はまた話が違うようだ。例によろしく、僕も就職活動という荒波に突入することになった。とは言え、片足を突っ込むどころか、今はまだ遠くから外観を眺めているに過ぎない。

 

どうやら、就職活動、略して就活というものにはエントリーシート、面接、SPIといった面接や試験が課せられるらしい。

 

SPIとやらは勉強するしかないのだろう。困ったのは、エントリーシートと面接だ。なぜなら、提出先の企業に対する志望動機や自己PRというものを書かないといけないからだ。

 

志望動機なんて「できるだけ楽してお金を稼ぎたい。願わくば、働きたくない」くらいなものだ。きっと、この国の憲法に勤労の義務なんて明記されていなければ、もっと堂々と働かないことを宣言できる世界になっていたのではないか、とないものねだりをしてみる。

 

自己PRに関しては、別にわざわざ企業様に雇ってもらうために言うようなことは持ち合わせていない。だって、「たまに寝坊するし、やる気がなくなる時もあります。それに、できるだけ家にいたいので出社したくないですが、そこそこ先見の明はあると思います」なんて正直に言ったものならば、「これだから学生は……」と思われて、書類の角を揃えてから一呼吸置き、重めの溜め息をつかれてしまうだろう。

 

すこし考えてみればわかってしまうのだが、就活は「働きたくない」ということを前提に、ありもしない志望動機や自己像を捏造するスポーツと言うと個人的にしっくりくる。自己を商材として売る以上、競合よりよく見せなくちゃいけないのは自明の理だろう。

 

さて、さらに困ったことがある。僕は善良な市民の上に、幼き頃から先生や親より「嘘をつくな」と教えられてきた。何かを守るための多少の嘘は許されるかもしれないが、自分の利益のために嘘を捏造するなんて許されて良いものなのだろうか? 僕は良くないと思う。

 

恐らく、多くの学生はこんな葛藤を抱えながら暑い中スーツに身を包んでいるのだろう。ちゃんちゃら可笑しいのはわかっていて、それでもそれを真剣にやらないといけないのだから、大抵の人間は気が狂う。上位何%かの人間は、既に狂っていてこういうことはそつなくこなせたりするらしい。所謂、意識高い学生だ。

 

気が狂う要因の割合を多く占めているのは、自己分析ではないだろうか。世間一般の人間が、自己の価値や可能性について深く考えることなんてそうそうないだろう。それこそ、アーティストなんかは嫌でも向き合っている。インタビューでも求められるし、素直に語ったことは誰かにとってとても大きな価値があるだろう。それは、アーティストの話を求めているからであって、簡単に言えば需要に対して供給をされているという市場が成り立っているのだ。

しかし、我々一般人の場合、そのままの状態では需要がないようだ。その証拠に、先述したような志望動機や自己PRを素直に語れば、まず変な企業以外落とされるはずだ。それで受かる変な企業があれば、ぜひ教えて欲しい。

 

つまり、一般人が就活するうえでは、自己分析は「加工」をしないといけないのだ。辻褄が合わないと良くないので、大嘘は良くないが、多少の誇張や言い回しの仕方は工夫することができる。相手によって言い方を変えることで、伝わり方も変わる。本当に広告と良く似た考え方だと思うのだ。

 

クライアントは課題を抱えていて、そこに対して我々就活生は解決策を提案する。

 

きっとそれだけの話だ。自己分析と言う名前が良くない。良くないというか、何か言葉が足りない。自己提案と言うべきではないか。分析はたしかに必要だ。だが、本当に求められているのは分析をすることではなく、提案することだ。そのために必然的に分析はセットになる。

 

話がぐちゃぐちゃになってしまったが、要は素直に自己分析をしなきゃいけないと考えると就職活動はややこしく感じてしまうので、相手の企業が抱えている課題を解決するために、自分を雇うという策を提案する点に重きを置いて考えてみれば、すこし楽になるのではないか、と思うわけだ。

 

とどのつまり、働きたくないことには変わりはない。

 

しかし、対価を得て成果物を提供するような仕事であれば、それなりのクオリティを担保しないといけなくなるし、自分のスキルやらタスク処理能力、社会的価値は嫌でも上がることになるであろう。そこに対しては、結構魅力を感じるし、魅力を感じたつもりにでもならなければ働くなんてできないだろう。

 

楽して楽しい仕事ができますように。

お節介

世の中、お節介な人で溢れている。

 

 

私は何かに取り組む時に、ある程度骨子ができあがったら、人の意見を取り入れてみようと思って意見を仰ぐことがある。自分が届くと考えたものは、必ずしも人に届くとは限らない。だから、人の意見に耳を傾ける。

 

しかし、時に人の意見はまったくもって宛にならないことがある。特に、やりたいことがない人間の意見は聞くに値しない。

 

同時に複数のことをこなすこと、ひとつのことに集中して取り組むこと、どちらも一長一短なところがある。やりたいことがない人間は、ものごとに取り組むときに並行して取り組むべきか、ひとつの集中するべきかを判断できないのだろう。

 

かなり抽象的な話なので、具体例を挙げよう。

 

例えば、写真を撮る時。もちろん、写真を撮るというのはファインダーやモニターを覗き、シャッターを押すことにほかならない。しかし、その際切り取れる光景は、基本的に撮影者がそれまで積み重ねてきた知見や潜在的意識の枠を超えることはない。空を意識したことがない人は空を意識して撮ることはないだろうし、女性の横顔に魅了されない男は、横顔を何百枚も撮ったりはしない。もちろん、写真には偶然性の内包も考えられるし、それが写真の恐ろしいところではあるが、「基本的」には写真が撮影者の器を飛び越えることはないのだ。

 

だとすると、良い写真を撮りたいと考えた場合、訓練しなくてはならないのは「写真を撮る」ことだけだろうか。

 

私はそうは思わない。「撮影技術とは直接関係がない」思考や経験を積み重ねて、それをファインダーの先に反映できるレベルにまで持ち上げられるか、そういう意識も必要になってくると思う。そのためには、膨大な量の小説や詩歌に触れたり、カメラを持たずに街へ繰り出すことだって、写真を撮るという行為に活きてくるのは必然なのだ。写真が秘める「偶然性の内包」に頼ることを許されているのは、本人の意思を別にして才能を得てしまった者だけだ。我々凡人には関係がない。

 

撮りたい写真がある場合、必ずしも写真のことだけを考えてはいけない。作詞、作曲、建築、デザイン、スポーツ、経営、なんにだって言えるのではないだろうか。

 

しかし、我々人間の時間は有限だ。いつまでも、無駄なことに手を伸ばしてはいられない。いろいろ思案した結果、削ぎ落とす必要だってある。そしたら、後は突き進むのみじゃないか。これらの過程に、他者の意思は介在させる必要はないと思う。なぜなら、実際に行動するのは自分で、そのモチベーションも自分にしかないからだ。

 

そういった持論を踏まえて言いたい。

 

お節介な善人ほど厄介。まるで、相手のことを思っているかのように、まったく役に立たないばかりか、自分でも知らぬうちに悪影響を及ぼす最悪な「アドバイス」を与えてくる。

 

自分で選んだことは、自分で成功したり失敗したりしないとわからないものだ。

 

他人に自分の人生の選択権を握らせてはいけない。

善とは

「思いやり」ってなんだろう。 

 

世間一般に云う「優しい人」は、自己犠牲を顧みず、他人のために行動する人のことだろうか。

 

とすると、「みんなのために頑張ります」と宣言する人は、一見すると優しい人であるように思える。

 

しかし、本当にそうだろうか。本当に優しい人は、自ら「相手のために」頑張ることを宣言するものではないと感じる。

 

震災があると、ボランティアをおこなう人に対して偽善かどうかについてスポットライトが当てられることがある。

 

私は、その議論について心の底からどうでも良いと思う。結果として、誰かが助かっていれば良いじゃないか。やらぬ善よりは、益をもたらす偽善の方がよっぽどマシだ。

 

本来、完璧な善は本人の意図するところに存在しないと思う。つまり、本人が意図せずおこなった行為が結果として誰かを救うことが、完璧な善に近いと云うことだ。

 

ともすれば、「みんなのために頑張ります」という宣言は、結果として誰かを救っているならば完璧ではないにしろ善であり、「優しい」言葉であるとも思える。

 

けれど、「みんなのために頑張ります宣言」は、往々にして「優しい私」をアピールすることが目的になってしまう。そればかりか、周囲に要らぬ期待を抱かせてしまう可能性さえある。

 

それはなぜか。結果として誰かを救いたいなら、黙って行動すれば良いし、宣言する必要なんてないからだ。宣言することで、相手を救う準備があることを示したいなら、具体的な行動を述べよ、そしてやり遂げよ、と思う。宣言する権利を行使するものには、自覚せずとも責任が宿るはずだ。たいていの宣言者は、いざとなれば逃げるし、都合が悪くなれば責任転嫁すると個人的に思う。

 

世間一般で認識されている「善」や「優しさ」は極めて無意味で、人間的で、実益がない。

 

このような論理を唱える人間は、俗に「捻くれ者」と呼ばれる。

 

ならば私は捻くれ者の先頭に立とう。

自慰

一番はじめのブログのタイトルに、「自慰」とつけるのはどうなんだろう。すくなくとも、私はそんなブログを絶対に読みたくない。

 

ブログを開設してみようと思ったきっかけは、便意や自慰行為のようなものに近いかもしれない。それか若しくは吐瀉物のようなものだ。いずれにせよ、至極まっとうな思考回路を有している人間が、他人の目に入れようと思うようなものではないことだけは確かだ。つまるところ、明確な意思や思惑は存在しない。

 

無駄に夜を更かしたせいで当然のように朝寝坊をして、誰かからの後ろめたさを抱えながら日中を過ごし、夜風とともにあらゆる罪が見逃される街に溺れて、そして結局夜を延長する生産性のない生活の繰り返し。

 

そんな生活のなかでも、私にはどうしても吐き出したい、吐き出さなければならないと思う事柄に触れる瞬間が度々ある。それは、社会的価値もなければ、誰かの共感を得ることも、誰かを救うこともないかもしれない。まさに、終電の時刻が過ぎ去った後の渋谷にぶちまけられる吐瀉物のようなもの。

 

カラダのどこかの拍子が狂って、自分の意思とは相反して外に出てしまう行為は、後悔を抱くことが確約されているようなものだし、それはそれは恥ずかしい。自慰行為だって、恋人の前でも見られたくないでしょ、普通は。

 

私にとって、Twitterに写真をあげたり、言葉を繋ぎあわせたりすることで、なんらかのメッセージを発信するというのは、上述したような行為に近い。簡単に言うと、自己顕示欲を偶像にしたものがTwitterだ。如何せん、言葉を吐き出すことについては留まるところを知らず、他人様のタイムラインを汚すこともしばしばある。きっと、ミュートをしているあなたは正常で、全部チェックしているあなたは異常だ。しかし、そんな異常なあなたはとっても愛おしい。

 

しかし、そんな愛おしい人でさえ、汚いものをずっとは見ていたくないだろう。

 

これからはブログにてまとまった言葉を綴っていこうと思う。

 

至極私的な散文になってしまったが、異常なあなたには稀にでよいので覗いて欲しい。

 

それでは、また。